植民地
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これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。

フランスでは1789年に、サント・ドミンゴ(現ハイチ)の代表が初めて国民議会に参加し、1791年の法律ですべての植民地に本国府県と同等の権利を認め、国民議会に代表を送り、最高法院の法官を選任する権利を与えた[11]

フェリックス・エブエフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。

後にコートジボワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニは、シャルル・ド・ゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚生大臣に相当)に任命された。

ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名の英領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。

後に第二次世界大戦期の日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。

イギリス帝国領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の31%を占めるにいたった。

ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリムイスラム教徒)として、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。

アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。

フィリピン1937年アメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。

日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。

衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。

洪思翊をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。

立法

立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。
行政

行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われた。
植民地主義「植民地主義」および「脱植民地化」を参照
現存する植民地

現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。

逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばコルシカ民族解放戦線などに代表されるフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる[要出典]。
類推

少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。

ソ連ロシアのアジア地域や衛星国中華人民共和国チベット自治区新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。「従属国」、「同君連合」、および「衛星国」も参照

形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満洲国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国東欧諸国)などがこの典型である。
植民地支配に対する評価

かつては法的にも道義的にも問題ないとするのが常識であった。1960年国際連合総会で決議された植民地独立付与宣言以降は、宣言などに見られるように、植民地支配は被害、搾取の時代として否定されるのが世界的傾向である。

旧宗主国側では、近代化という恩恵を後進地域にもたらした善行であるという評価がなされる場合もある。一方で、「部外者による発展」より「民族の独立」そのものに重きを置く価値観から、こうした「恩恵説」に対する反発も存在する。また、植民地支配の便宜を図るための共同体の解体や文化の破壊、言語の空白化を重視する思潮もある(ポストコロニアリズム参照)。
各論
ヨーロッパ諸国

マルコ・ポーロの『東方見聞録』、羅針盤の伝播、香辛料への渇望によりヨーロッパ諸国の東洋に対する関心が高まった。1477年には、クリストファー・コロンブス大西洋の先の知識を求め、アイスランドへ赴いた。
ポルトガルとスペインポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999スペインが領有したことのある地域「ポルトガル海上帝国」、「ポルトガルによるアメリカ大陸の植民地化」、「スペイン帝国」、および「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」も参照

ポルトガルスペインイベリア半島におけるイスラーム勢力に対する国土回復運動であるレコンキスタを達成した後、大航海時代の先頭を切って海外に進出した。スペインはコロンブスの新大陸発見後、中米メキシコ南米ペルーを中心とする大領土を獲得し、さらに太平洋を横断してフィリピン諸島の領有にも成功した。

ポルトガル海上帝国スペイン帝国の領域を分別したのは、1494年ローマ教皇アレクサンドル6世が定めたトルデシリャス条約である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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