植民地
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明治政府は開国以来、外国人の関係する「人権問題」に否応なく巻き込まれるようになった[注 4]
統治形態

植民地の統治形態には、以下のものがある。
領事裁判権租借地租界設定条約による治外法権の確立。

外交権や駐軍権のみを獲得し内政は先住民による統治に任せて原則として干渉しない保護領

現地の王侯や部族長を通じて支配する間接統治

本国から総督や民政長官、軍政長官などを派遣して支配する直接統治

本国が外交防衛のみを担当し内政は現地住民によって民選された政府・議会に委ねる自治植民地。ただし「自治」とはいっても、参政権は本国出身者に限定されたり、先住民の参加を認めても公用語(本国の言語)習得や一定額以上の納税などの条件を付けて、事実上の参政権が著しく制限されることが多い。

自国領への併合(この場合も従来の現地住民について、市民権や国籍上の地位に区別が設定されたり、併合領土での立法・行政権など統治形態が異なることがある)

一般的に植民地統治が継続する中で1.あるいは2.から4.までの変遷をたどるケースが多いが、植民地が本国に隣接している場合、最終的に本国領土の一部として編入され、その過程で先住民も同化が進み、固有の言語文化、民族意識を喪失していく傾向にある。

植民地における主権は領有国が有するが、領有国の主権がより限定された租借地租界のまま統治が継続されるケースもある。また、特殊な形態として保護国、複数国による共同統治領、国連の委任統治領信託統治領などがある。
土地政策

主権のある未文明国に関しては共有、行政占領、租借、割譲という概念で領土獲得を行い、そうでない場合はもっとも露骨な領土獲得の根拠として「無主物先占」の法理が利用された[10]
法的地位

帝国主義の時代、植民地では本国とは異なった法律が施行、あるいは便宜の規定のみが施行され、住民には国籍や市民権が与えられなかったり、国籍を与えても「属領籍」「外地籍」「海外籍」のように本国人とは異なる法的身分に編入され、権利義務について不平等な取扱がなされた(イギリス国民や本項の日本の植民地を参照)。
非本国出身者の処遇

ただし、植民地人が本国人と同様の公職に就くことが必ずしも不可能であったわけではなく、官公庁や軍隊において高官に登用され、あるいは本国議会に選出される例もあった。このような傾向は、同化主義を建前とする日本フランスの植民地に特に強かった。イギリスの海外領土アメリカ合衆国の海外領土の住民には現在も本国の公職(大統領、国会議員)選挙への投票が認められていない。海外領土出身であっても本国に移住すれば可能である。これに対しフランスの海外県の住民はフランス内地の県の住民と同様に公職選挙への参加が可能である。これは、自治主義、分離主義と同化主義、内地延長主義という植民地統治思想の違いのなごりと見ることができる。

フランスでは1789年に、サント・ドミンゴ(現ハイチ)の代表が初めて国民議会に参加し、1791年の法律ですべての植民地に本国府県と同等の権利を認め、国民議会に代表を送り、最高法院の法官を選任する権利を与えた[11]

フェリックス・エブエフランス領ギアナで黒人奴隷の子として生まれたが、いくつかの植民地の長官を経て1941年にフランス領赤道アフリカの総督に任命された。

後にコートジボワールの初代大統領となるフェリックス・ウフェ=ボワニは、シャルル・ド・ゴール政権下でフランス公共保健・人口相(厚生大臣に相当)に任命された。

ダーダーバーイー・ナオロージーを始めとする数名の英領インド出身者がイギリス下院議員に選出されている。

後に第二次世界大戦期の日本軍占領下で建国されたビルマ国の国家元首となるバー・モウは、1937年にイギリス領ビルマ植民地政府の初代首相に選出された。

イギリス帝国領インド植民地政府の高級幹部職員であるインド高等文官(ICS)の採用試験は、19世紀後半にインド人にも開放された。結果、インド独立時にはインド人ICSが全体の31%を占めるにいたった。

ムハンマド・アクバル・ハーンはイギリス領南アジア出身のムスリムイスラム教徒)として、はじめてイギリス領インド軍の将官に進級した。

アブドゥル・ラヒームは1908年にマドラス高等裁判所の裁判官に任命され後に同裁判所長官となった。

フィリピン1937年アメリカ合衆国に直接統治される植民地から、独立を視野に入れた自治植民地(コモンウェルス)に移行し、独立準備政府の初代大統領としてマニュエル・ケソンが国民投票によって選出された。

日本統治下の朝鮮における道知事の概ね半数程度は朝鮮人であった。

衆議院議員として朝鮮人の朴春琴が選出されたほか13名の植民地出身者が貴族院議員に任命された。

洪思翊をはじめとする朝鮮人の陸軍士官らが将官に進級した。

立法

立法権は本国政府が任命した総督等の行政長官が掌握することが多かった。多くの場合、植民地の議会は設置されても諮問機関にとどまり、立法権が与えられたとしても、総督等の拒否権が伴うのが通例であった。また、本国の法令の効果は原則的には植民地には及ばないこととされていることが多く、植民地に本国法を適用するためには、植民地政府が別途その旨の法令を制定する必要があった。
行政

行政職員にどの程度現地人を採用するかは植民地によって異なるが、官庁窓口の係員、下級警察官、教員など現地人と直に接する業務従事者には現地人が配置されることが多かった。これは現地語の理解や人員の確保などさまざまな要因があったと考えられるが、結果として現地人の敵意が直接宗主国に向かれるのを回避する効果が期待された。また、植民地人同士の対立を煽ることによって統治を円滑にすすめるため、宗主国に融和的な民族や部族の出身者を優先的に公務員に採用することも行われた。
植民地主義「植民地主義」および「脱植民地化」を参照
現存する植民地

現代においても事実上の植民地を保有する国は多いが、第二次世界大戦以降は各地の植民地で独立運動が盛んになったり、1960年の国際連合総会における植民地独立付与宣言の決議で、植民地という存在そのものが国際的に否定されたことから、客観的に見て植民地と言いうる実態を有している地域であっても、先住民に本国民と対等の権利を与えて海外領土や自治領などという言い換えをすることが多い。

逆に、客観的に見て植民地と言い難い地域であっても、住民が領有国の統治に不満を持っている場合、領有国を攻撃するための政治的スローガンとして使われることもある。例えばコルシカ民族解放戦線などに代表されるフランス領コルシカ島の分離主義者は同島がフランスの植民地であると主張している。旧東ドイツ住民の中には、「西ドイツの植民地支配を受けている」と主張する人もいる[要出典]。
類推

少数民族の居住地域で、独立運動や市民的自由の抑圧、資源の収奪等の過酷な統治が行われているが、従来の植民地の定義は満たさない地域を、過去の歴史上の植民地との類推から「植民地」と呼ぶこともある。

ソ連ロシアのアジア地域や衛星国中華人民共和国チベット自治区新疆ウイグル自治区などはこのような文脈で植民地と言われることがある。このような地域を講学上内国植民地と呼ぶことがある。「従属国」、「同君連合」、および「衛星国」も参照

形式的には独立国として取り扱われていても、内政・軍事両面で外国の圧倒的な影響下に置かれている国家は植民地あるいは植民地同然と形容されることが多い。日本にとっての旧満洲国(現在の中国東北部)や旧ソ連の衛星国(現在のモンゴル国東欧諸国)などがこの典型である。


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