植村直己
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^ 1989年12月に東西冷戦が終結する以前は、ヨーロッパ大陸最高峰モンブランであるという説が一般的であった。
^ 「かみのごう」と読む。
^ 兄4人、姉2人である[8]。なお、直己のすぐ上の兄は2歳で死去した[9]
^ 植村の誕生当時は農業のみであり、植村が小学校高学年の頃からわら製造も始めた[13]
^ 1970年日本人初のエベレスト登頂に成功した際、遠征隊を後援していた『毎日新聞』では「直巳」と表記された[6]
^ 新日本運輸からの採用通知の1週間後に、関西大学からの合格通知が届いたが、新日本運輸が親戚の紹介先であったことから、進学を諦めて就職した[27][28]
^ 大学に進学したのは、「東京では学歴がある者が勝つ。東京で勤めるなら、その前に、大学に行かねば」と思ったからである[29][31]。また、同大学の農産製造学科を受験したのは、家の農業のためではなく、志望者が少なくて、入学が比較的容易であったため[32][33]
^ 山岳部に入れば、緑の見られない都会の雑踏から逃れられ、自然の中で山に登ることもでき、また、テントで同じの飯を食えば、友だちも得られると思ったからである[32]
^ 植村は、自著に「あれほどみじめなことはなかった」と記している[36]
^ 後に植村は「あれほどの屈辱を感じたことはない」と親しい友人たちに話している[37]
^ 毎朝6時に起きて、山道を約9kmランニングした[38]
^ テント無しの、雪洞での山行であった[40]
^ 植村は、この山行を、サブリーダーとして人の上に立つための試練と考えた[40]。しかし、これは山岳部に無届でしたものであり、これまでも他に単独山行をしていたことも含めて、部に知れるところとなり叱責された[44]
^ チーフリーダーは、小林正尚であった[45][39]
^ 植村修は、1931年5月3日生まれであり[50]、直己とは10歳近く歳が離れている[51]
^ その理由を、植村は両親に「世の中に植村直己の名を残したい」からと語っている[55]
^ 貿易の自由化に伴い、観光旅行が自由に認められるようになるのは、1964年になってからである[54]
^ この再入学は、海外旅行をする上で学生の身分の方が何かと有利ではないかと考えたからだと思われる[58]
^ パンキュウリを食べて支出を減らそうと考えていた[59]
^ 実家に帰って、父母に相談したが大反対されたため、近くの円山川の橋で泣いた後、部屋で布団をかぶって3日間断食した[60]。困り果てた父母は、植村の長兄の植村修に判断を一任し、植村修は弟・直己の思いを理解し、渡航を承諾してくれた[61]
^ ロサンゼルスの外港のサンペドロに入港した[67]
^ 植村は少しは英語を話せるようになっていたが、それでは本心が伝えられないと思い、名前以外は何を聞かれても、日本語しか話せないと繰り返して言った[71]。そこで、通訳として日系人が呼ばれ、その人に登山の資金を貯めるために働いていることを、「機関銃のようにしゃべりまくった」。その結果、取調官の“温情”措置により、強制送還を免れることができた[72][73]
^ 山頂が氷に覆われており、気候によって標高が変動する。2007年の計測では4,810.9m。
^ 雪をかぶって表面からは見えないクレバスである。
^ 約2m落下したところで、頭を打って気絶したが、アイゼンの爪が氷壁に引っかかり、背中のザックと胸がはさまって、植村いわく“見事に”止まった。
^ 植村はあまりスキーが上手くなかったが、就職面接の際、ジャン・ヴュアルネの前で「私はグッド・スキーヤーだ」と言い、スキーで滑る真似をしてみせた。そのとき、ヴュアルネは、植村の“嘘”を見抜いていたが、それを指摘もせずに採用してくれた[77]
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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