植村直己
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1947年4月、国府村立府中小学校(現:豊岡市立府中小学校)に入学[2]

1953年4月、国府村立府中中学校(現:豊岡市立日高東中学校)に入学[2][22]

1956年4月、兵庫県立豊岡高等学校に入学した[2][23]。高校1年のとき、春の学校遠足蘇武岳標高1,074m)に登った[24]。特に山には興味はなかった[25]1959年3月、高校卒業[26]

1959年4月、豊岡市の新日本運輸に就職した[27][2][28][注 9]。自ら希望して、就職から1か月後、東京両国支店に転勤となった[29][30]1960年2月、新日本運輸を退職[26]

1960年4月、明治大学農学部農産製造学科に入学[29][31][注 10]山岳部に入部した[34][注 11]。それまで登山の経験も知識もなかったので、5月、新人歓迎合宿の日本アルプス白馬岳の山行で、疲労から一番先に動けなくなり[35]、著しい屈辱を感じた[36][37][注 12][注 13]。その後、独自にトレーニングを重ね[注 14]、登山に没頭し、年120?130日間山行した[38][39]。また、ガストン・レビュファ/著『星と嵐』(近藤等/[40]や、同じ兵庫県出身の加藤文太郎/著『単独行』[41][42]を読み、感銘を受けた。大学3年の冬、黒四ダムを出発し、黒部峡谷の阿曽原峠 - 北仙人尾根 - 剱岳北側の池ノ平 - 剣沢 - 真砂尾根 - 真砂岳 - 地獄谷 - 弥陀ケ原 - 千寿ケ原に達するという5日間の単独山行をした[注 15][40][43][注 16]。大学4年のとき、サブリーダーとなった[39][注 17]。山岳部の同期であり、親友の小林正尚[46]から、米国アラスカ旅行でマッキンリー(現:デナリ)の氷河を歩いてきたとの話を聞き、海外の山に憧憬を募らせるようになった[47][48][49]。なお、学費は長兄の植村修[注 18]が仕送りしていた[52]

大学卒業後に台湾新高山(現:玉山)に登りたい[53][54][注 19]と思い、ビザを申請するが許可されず[注 20]、断念した[56][54]

1964年3月、明治大学農学部卒業[57]。同年4月明治大学法学部に入学[57][注 21]
世界“放浪”の旅

1964年、23歳のときに、ヨーロッパアルプス氷河を見ようと決心した[59]が資金が足りないため、まず生活水準が高い米国で資金を貯めて[注 22]、その後ヨーロッパに行こうと考え[59]、家族の大反対を押し切って[注 23]5月2日横浜港から移民船「あるぜんちな丸」に乗り込み、米国ロサンゼルスへ向かった[62][63]


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