1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳の?外は父と上京する。現在の墨田区東向島に住む。
東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社[注釈 5]に入った。その際に通学の便から、?外は政府高官の親族である西周の邸宅に一時期寄宿した。
翌年、残る家族も住居などを売却して津和野を離れ、父が経営する医院のある千住に移り住む。 1873年(明治6年)11月、?外は入校試問を受け、第一大学区医学校・東京医学校医学本科予科(定員約60人、修業年限3年[5])[6]に実年齢より2歳多く偽り、満11歳10ヶ月[注釈 6]で入学した。 当時は、大学制度確立までの過渡期であり、校名が頻繁に変更されるほどで、入学年齢制限は14 - 17歳であった[7]。 入学は9月であったが、定員約60名の最大定員100名に達しなかったため、学生募集が続けられており、実年齢を偽った?外のほか、上限年齢を超えた18歳と19歳の応募者も入学し、新入生は71名だった[8]。しかし、そのうち本科に進めるのは30名に過ぎず、さらに上級の落第者と編入生も加わり、予科生は厳しい競争にさらされた。?外の属したドイツ語中位のクラスで落第せず卒業したのは24名のうち11名、下位クラスでは41名のうち2名であった[8]。 ?外は、同校医学本科(定員約30人、修業年限5年)に進学し、ドイツ人教官たちの講義を受けた。一方で、医学館教授の佐藤元長に漢文・漢詩、漢方医書を学んだ。漢文は依田學海と伊藤松渓
東京医学校生
西洋語にも堪能な?外は、「寄宿舎では、その日の講義のうちにあった術語だけを、希臘(ギリシア)拉甸(ラテン)の語原を調べて、赤インキでペエジの縁に注して置く。教場の外での為事は殆どそれ切である。人が術語が覚えにくくて困るというと、僕は可笑しくてたまらない。何故語原を調べずに、器械的に覚えようとするのだと云いたくなる。」と自伝的小説「ヰタ・セクスアリス」で自身の学習法を記している。
妹の回想には、下宿に同居して?外の世話をしていた祖母が、卒業試験前に文学書を読みふける?外を心配するくだりがあり、卒業試験の最中に下宿が火事になって講義ノート類を焼失したり、?外のノートに漢文の書き込みを見つけた外科学のシュルツ教授から反感を買ったりしたこともあったが[10]、1881年(明治14年)7月4日、満19歳5ヶ月[注釈 7]、東京医学校本科を席次8番で卒業した。首席で卒業した同級生の三浦守治(のち東京帝国大学教授)は余ガ大学ニ在ルヤ同級生ニ森林太郎ノ俊才アリ、高橋順太郎ノ勉強アリ。共ニ畏敬セル競争者ナリキ
と門下生に語っており、卒業席次上位10名の中で他者より5 - 7歳年下の?外は優秀であった[10]。 しかし、卒業後の?外は、医者や役人また教育者、ましてや軍人になることは考えず、なにか物書きを夢見ており、文部省派遣留学生としてドイツに行く希望を持ちながら、父の病院を手伝っていた。その進路未定の状況を見かねた同期生の小池正直(のちの陸軍省医務長)は、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に?外を採用するよう長文の熱い推薦状を出しており、また親友の賀古鶴所(かこ・つると(のち日本耳鼻咽喉科学の父といわれる陸軍軍医)は、?外に陸軍省入りを勧めていた。結局のところ?外は、同年12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務した[注釈 8]。 妹・小金井喜美子の回想によれば、若き日の?外は、四君子を描いたり、庭を写生したり、職場から帰宅後しばしば寄席に出かけたり(喜美子と一緒に出かけたとき、ある落語家の長唄を聴いて中座)していたという[11]。
陸軍軍医として任官
ドイツ留学1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と[12]。前列左より河本重次郎、山根正次、田口和美、片山國嘉、石K忠悳、隈川宗雄、尾澤主一[13]。中列左から林太郎(?外)、武島務、中濱東一郎、佐方潜蔵、島田武次、谷口謙、瀬川昌耆、北里柴三郎、江口襄[13]。