帰国後、訳詩編「於母影」、小説「舞姫」、翻訳「即興詩人」を発表する一方、同人たちと文芸雑誌『しがらみ草紙』を創刊して文筆活動に入った。その後、日清戦争出征や小倉転勤などにより創作活動から一時期遠ざかったものの、『スバル』創刊後に「ヰタ・セクスアリス」「雁」などを発表。乃木希典の殉死に影響されて「興津弥五右衛門の遺書」を発表後、「阿部一族」「高瀬舟」など歴史小説や史伝「澁江抽斎」なども執筆した。
陸軍を退いた後は宮内省に転じ、帝室博物館(現在の東京国立博物館・奈良国立博物館・京都国立博物館等)総長や図書頭を死去まで務めたほか、帝国美術院(現:日本芸術院)初代院長なども歴任した。 1862年2月17日(文久2年1月19日)、?外こと森林太郎は石見国鹿足郡津和野町田村(現・島根県鹿足郡津和野町町田)で生まれた[3]。代々津和野藩の典医を務める森家(禄高は50石[1])では、祖父と父を婿養子[注釈 3]として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であった[注釈 4]。 藩医家の嫡男として、幼い頃から『論語』『孟子』といった漢学書とオランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読した。当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されており[4]、激動の明治維新期に家族と周囲から将来を期待されることになった。森静男が経営した橘井堂跡の碑 1872年(明治5年)、廃藩置県などをきっかけに10歳の?外は父と上京する。現在の墨田区東向島に住む。 東京では、官立医学校(ドイツ人教官がドイツ語で講義)への入学に備えてドイツ語を習得するため、同年10月に私塾の進文学社[注釈 5]に入った。
生涯
生い立ち