森鴎外
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^ 慣例として前任者(小倉「左遷」人事をした小池正直)の推薦が必要であった。その小池は、7歳年上であったが、?外とは東京大学医学部の同期生であり、かつて?外を採用してもらえるように陸軍軍医監の石黒忠悳に熱い推薦状を提出した。学生時代の2人を知る緒方収二郎は、?外を「強記は実に天才」、小池を「沈黙謹厳」と評した(山﨑 (2007)、41、310?311頁)。また小池は、7か月間の外遊から帰国後、トップの医務局長に就任するまでの半年間、?外と毎月1 - 2度会っていた。老朽軍医の淘汰を断行した小池の初回人事では、その淘汰で空いたポスト二つのうち第二師団(仙台)ではなく、近衛師団(東京)の軍医部長に?外をつけた。?外が小倉にいた1900年(明治33年)5月末、小池医務局長の推薦に基づく軍医の叙勲が行われ、?外は小池と同等に勲四等に叙せられた。日露戦争後、第一軍 ? 第四軍の軍医部長経験者5名のうち中央に残されたのは?外だけであり、会議などでも?外がナンバー2の地位にあることが明確にされた。以上のように、?外に関する小池の人事では、小倉「左遷」だけが特異であった。その理由として山下(2008)は、小池には?外への悪意がなく、「左遷」には別の理由があったとした。また「左遷」人事の背景として、日清戦争後の台湾平定での脚気大流行とその隠蔽、陸軍大臣高島鞆之助とその後任桂太郎など台湾での出来事を知る将官による責任追及とその反動(山県有朋元帥や大山巌元帥や児玉源太郎などと懇意である石黒忠悳(衛生の総責任者)の保身運動)という複雑なものを挙げた。
^ ?外は、1910年(明治43年)12月10日、被告26人が出廷した大審院特別法廷(非公開)の高等官傍聴席にいたとの説がある。なお同年12月14日与謝野鉄幹と大逆事件弁護人の平出修とを供応した。その平出は、?外から一週間にわたって無政府主義社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。平川ら (1997b)、303?306頁。
^ 陸軍に絶大な影響力をもつ山縣有朋とは、親友の賀古鶴所を通して関係があった。1906年(明治39年)6月10日、?外と賀古が佐佐木信綱井上通泰ら4名を酒楼「常盤」に招いて歌会を起こすことを勧め、その後、賀古が山縣に話のついでに告げたところ、山縣も力を添えることになった(山﨑 (2007)、285頁)。その歌会常盤会は、山縣が他界するまで15年間続いた。もっとも5か月後、前年から体調を崩していた?外も他界した。?外が山縣の誕生祝の宴に初めて招かれたのは、陸軍省医務局長を退く前年の1915年である。
^ 末延は、小説「鼠坂」についての見出しに「「剣」に屈服した新聞記者」と副題をつけた(末延(2008)、246?281頁)。
^ 乃木希典の殉死と「興津弥五右衛門の遺書」に関する通説・定説には、批判もある(池内(2001)、147?157頁)。
^ ?外の歴史小説は「阿部一族」「大塩平八郎」「堺事件」、戯曲「曾我兄弟」(1914年3月)まで「権力と民衆」への視点を基本構図としながらも、殺伐とした物語が多かった。「安井夫人」(1914年4月)以来、「山椒大夫」「じいさんばあさん」「最後の一句」「高瀬舟」など家族の情を主体としたものが多くなっていく。山﨑 (2007)、655頁
^ 「空車」に対し、これまで様々な解釈がなされている。近年も注目すべき解釈が提示された。池内 (2001)、198?207頁。
^ 唐木順三に従えば、「礼儀小言」は大正期の日本人の暮らしと思想のあまりの大変動に恐怖を感じた明治人、?外の大正的なるものに対する深刻な憂いの表明である(片山 (2007)、106頁)。
^ 帝室博物館では月・水・金曜日(8時から16時まで)に、図書寮では火・木・土曜日(8時から13時まで)に勤務した。博物館総長として毎秋、?外は正倉院虫干しに立ち会わなければならず、奈良や京都に1か月ほど滞在していた。また、総長就任の4年間で博物館の歳出が大幅に増え、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法が改まり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員や古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。山﨑 (2007)、705-707、785頁。
^ すでに臨時「宮内省御用係として1913年(大正2年)2月から、勅語令旨など、特別な文章の起草、執筆に関わっていた。1915年(大正4年)5月には、大典前の大正天皇から漢詩を所望され、「応制の詩」を作った。御用係は総長・図書頭就任時に免じられたものの、特別な文章への関わりは1921年(大正10年)頃まで続いた。山﨑 (2007)、625、702?703頁。
^ 一連の経緯は、猪瀬 (2002)が詳しい。
^ ただし、遺言を残した翌7月7日に大正天皇と貞明皇后から葡萄酒が下賜され、8日に摂政宮(後の昭和天皇)から御見舞品が下賜され、従二位に叙せられた。?外本人は、遺言を残した6日夜半から容体が悪化し、7日夕刻から昏睡状態に入っており、没した翌10日の『東京朝日新聞』が最期の様子を次のように報じた。8日午後の注射以来少しく容体を持直し、午後10時頃には何事か看護の人に言はうと試みていたが聞きとれなかった。それから不安のうちに夜が明けて9日午前4時にわかに容体が変わったので…… ? 山﨑 (2007)、811-813、843頁[一部を平仮名にし、句読点を入れた]

もっとも、死去する前日の8日に従二位に叙せられたことで、大谷 (1983) (2000)は?外最後の遺言を疑問視し、?外の叙爵への執着を指摘した。志田 (2009)は?外が石黒忠悳によって貴族院議員に推挙された際に喜んでお受けしたい旨の返書を送ったという日記(大正5年1月6日)の記述を挙げ、?外が臨終の際に袴を履いていたのは叙爵の使者を迎えるためだったと指摘した。
^ 「立ち依(よ)らば、大樹の陰、その名は?外、森林太郎」と書いた太宰治は、希望した通り、?外の墓の前(はす向かい)に埋葬された(猪瀬 (2002)、9頁)。
^ たとえば、日本初の西洋風演出による新劇運動として、その後の演劇界に多大な影響を与えた自由劇場の第一回旗揚げで上演されたのは、イプセン作・?外訳「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」(小山内薫の演出)であった(1909年11月)。当時の?外は、「草創期の新劇にとって非常に大きな力」となり、「ある時期、?外が西洋の近代戯曲への窓口だったといっていい」とまで評価されている。(平川ら (1997c)、176?177頁)。
^ 国民歌劇協会が作曲家グルック生誕200年を祝って1914年大正3年)7月2日に上演を予定し、?外に訳を委嘱した。ただし、第1稿は留学先のドイツから持ち帰った台本を底本としたため、協会の楽譜に合わなかった。その後、第2稿は完成したものの、第一次世界大戦の勃発など諸般の事情によって上演されなかった。しかし、91年後の2005年平成17年)9月18・19日、その幻のオペラは、関係者の尽力により、?外が希望したフルオーケストラで初演された(上野・東京藝術大学奏楽堂)。DVD:森?外訳オペラ『オルフエウス』紀伊国屋書店、KKCS-65。
^ たとえば、1889年(明治22年)8月、発足したばかりの日本演芸協会の文芸委員になっており、同年10月刊行の『しがらみ草紙』創刊号で「演劇改良論者の偏見に驚く」を発表。
^ 田山花袋は、私は殊に?外さんが好きで、『柵草紙』などに出る同氏の審美学上の議論などは非常に愛読した。?外さんを愛読した結果は私もその影響を受けた。 ? 「私の偽らざる告白」『文章世界』1908年9月

と書いた。

日露戦争中、第二軍写真班の取材記者として5か月ほど従軍した花袋は、宇品港のある広島市本町の宿に同軍軍医部長の?外を訪ねており(初対面)、2人は文学談義を交わすなど頻繁に会っていた(平川ら (1997a)、388、403?405頁)。
^ ?外が日本の近代美術史に残した足跡の一つに、実質的編集者として展覧会カタログ『原田先生記念帖』を発行したことが挙げられる。その展覧会とは、1909年(明治42年)11月28日(日曜日)、[[東京美術学校 (旧制)|]]校庭の校友会倶楽部で開催された「原田直次郎没後十周年記念遺作展」である。


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