森繁久弥
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巧みな語りは「森繁節」と呼ばれるほどに定評があり[6]ラジオ番組日曜名作座』への出演のほか、朗読作品も多い。先に亡くなった俳優たちの弔辞を読む姿でも知られる[7]慈善事業にも尽力し、自身の寄付活動を伴淳三郎らとともにあゆみの箱として法人化している。著書自伝『森繁自伝』、エッセイ『品格と色気と哀愁と』など多数。

受賞も数多く、紫綬褒章文化功労者名誉都民、枚方市名誉市民国民栄誉賞などのほか、1991年には大衆芸能分野で初となる文化勲章を受章した。
来歴
生い立ち

1913年5月4日日曜日)、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)上之町に父・菅沼達吉と母・馬詰愛江の3人兄弟の末っ子として生まれる。祖父は江戸幕府大目付・森泰次郎で、その実弟は儒学者成島柳北である[7]。父の達吉は旧制第二高等学校教員、日本銀行大阪支店長、大阪市高級助役、大阪電燈取締役常務を歴任した実業家[7][9] で、母の愛江は大きな海産物問屋の娘であった。久彌という名前は、父が実業家の岩崎久彌男爵三菱財閥三代目総帥でエリザベス・サンダースホーム創設者澤田美喜の父)と深い親交を持っていたことに由来する。

2歳の時に父が死去。長兄の弘は母方の実家の馬詰家を継ぎ、次兄の俊哉はそのまま菅沼家を継ぐ。久彌は枚方尋常小学校1年生の時に、母方の祖父で南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎の家を継ぎ、森繁姓となる[7][10]兵庫県西宮市鳴尾に移り住み[10][11]、小学校5年まで鳴尾小学校に在学。6年生の時に、教育熱心な母親により、旧制大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高等学校)への進学のために堂島小学校へ転校させられる[12]。堂島小卒業後、母親の念願通り北野中学に進学。

旧制北野中学から旧制早稲田第一高等学院に進み、1934年早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇研究部(略称:劇研)に所属し、先輩部員の山本薩夫谷口千吉と共に活動、彼らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となった[2]。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、劇研を脱退してアマチュア劇団・中央舞台(後に人間座)を創立し、築地小劇場を借りて『アンナ・クリスティ』を上演した[10][11]
演劇の世界へ

1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。同年に長兄・弘の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)に入社し、日本劇場の舞台進行係を振出しに、東宝新劇団、東宝劇団、古川ロッパ一座と劇団を渡り歩いて下積みを過した[2][7][10]。下積み時代は馬の足などしか役が付かなく、日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。しかし、ロッパ一座では座長の古川から認められ、のちのちまで目をかけられた[2]。この頃に盟友となる山茶花究と出会う。1937年にロッパ一座を退座[2]1938年に応召されるが、耳の大手術をした後だったため即日帰郷となった[7]

1939年NHKアナウンサー試験に合格。3ヶ月の養成期間終了後、満洲・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した[注釈 1]。アナウンサー業務のほか満洲映画協会製作の映画のナレーション等も手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。同じ満洲電電に務めていた赤羽末吉(のちに絵本作家)とも親交を結ぶ[14][注釈 2]。また、満洲各地を回った時のルポルタージュ国定教科書(高等国語二)に採用された[2]。さらに新京放送劇団に所属し、芦田伸介と知り合う。満洲巡業に来た5代目古今亭志ん生6代目三遊亭圓生とも親交があった。アナウンサー時代に指導した後輩に糸居五郎や現地局員だった岡崎経子(女優・岡崎友紀の母)がいる。

満洲時代には、川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送[注釈 3]を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している[15]
人気タレント・俳優としてラジオ東京『ぴよぴよ大学』公開録音で長女とともに解答する森繁(1954年

帰国後は帝都座ショーや空気座などの劇団を転々とし[2][11][16]、この間の1947年衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画に初出演する。1948年7月には菊田一夫の紹介で、創作座公演の『鐘の鳴る丘』に出演し、井上正夫と共演した[2][7]。翌1949年に再建されたばかりのムーラン・ルージュに入団し、同年4月の舞台『蛇』で川田順をモデルとした主人公を演じ[2]、10月にはミュージカル『太陽を射る者』に出演、演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集めた。

1950年、ムーラン・ルージュを退団。同年に古川の推薦でNHKのラジオ番組『愉快な仲間』にレギュラー出演。メインの藤山一郎の相手役を演じ、2人のコンビネーションが人気を呼んで、3年近く続く人気番組となった。この番組でその才能に注目が集まった。さらに『ラジオ喫煙室』ではメインパーソナリティを務め、ディスクジョッキーの先駆け的存在となった[17][18]


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