2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている[6]。 1970年(昭和45年)23,761人 [7]
森町 - 字清滝、字桂川、字三岱、字栗ケ丘
人口
森町と全国の年齢別人口分布(2005年)森町の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 森町
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
森町(に相当する地域)の人口の推移
1975年(昭和50年)23,563人
1980年(昭和55年)23,467人
1985年(昭和60年)23,017人
1990年(平成2年)22,142人
1995年(平成7年)21,006人
2000年(平成12年)20,233人
2005年(平成17年)19,149人
2010年(平成22年)17,860人
2015年(平成27年)15,946人
2020年(令和2年)14,338人
総務省統計局 国勢調査より
隣接自治体
渡島総合振興局
北斗市
茅部郡:鹿部町
亀田郡:七飯町
二海郡:八雲町
檜山振興局
檜山郡:厚沢部町
歴史
古代
紀元前4千年紀 - 砂原二ツ山や尾白内に縄文の人々が住んでいた。土器や石器が発見される(昭和38年)。
紀元前2千年紀 - 縄文文化が栄える。この頃に環状列石(北海道内では最大、全国的にみても3番目となる)が作られたと見られ、イカ形土製品
古来より先住民族アイヌの集落が形成されていた。
中世
戦国時代
1532年 - (享禄5年)青森県蟹田村から権四郎が旧砂原町地域に移住・開村し部落が形成された[10]。
安土桃山時代
1560年 - (永禄3年)内浦権現神社創建、砂原岳(駒ヶ岳)中腹の岩窟内に三神奉祀。
1601年 - (慶長6年)上磯町の有川より千歳末吉が鷲ノ木地区に移住したのが和人の定住の最初と言われる。
近世
江戸時代
1640年 - (寛永17年)駒ヶ岳が有史始まって以来の大噴火。直下の湾岸一帯に大津波が発生し、被害をもたらす。
1661年 - (寛文元年) 鷲ノ木地区の和人戸口が増加し、「鷲ノ木村」と称するようになった。一説によると1624年の可能性もある[11]。
1666年 - (寛文6) 円空上人が、砂原村内浦神社に仏像1体を奉納[12]。
1694年 - (元禄7年)駒ヶ岳噴火、火山雷を伴う大噴火。
1738年 - (元文3年)鷲ノ木村が本村となり、森・蛯谷古丹・棒美・本茅部・石倉を支村して村落が形成されていった。
1751年 - (宝暦元年)ニシンの漁場(茅部場所
1757年 - (宝暦7年)この頃茅部場所では、加工技術が発達していなかったことから、豊漁だったニシンが大量に放置されていた。そのため、これを土中に埋め、その上に鯡供養塔