森町_(北海道)
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(25.5)1.1
(34)6.2
(43.2)11.0
(51.8)15.6
(60.1)17.3
(63.1)13.0
(55.4)6.4
(43.5)0.4
(32.7)?5.5
(22.1)3.9
(39)
最低気温記録 °C (°F)?18.4
(?1.1)?18.8
(?1.8)?14.3
(6.3)?6.8
(19.8)?1.0
(30.2)2.7
(36.9)7.9
(46.2)9.3
(48.7)4.3
(39.7)?1.5
(29.3)?11.8
(10.8)?14.5
(5.9)?18.8
(?1.8)
降水量 mm (inch)48.4
(1.906)54.8
(2.157)62.5
(2.461)81.6
(3.213)77.0
(3.031)70.5
(2.776)106.0
(4.173)168.0
(6.614)122.3
(4.815)96.6
(3.803)109.2
(4.299)80.9
(3.185)1,074.8
(42.315)
降雪量 cm (inch)128
(50.4)118
(46.5)80
(31.5)6
(2.4)0
(0)0
(0)0
(0)0
(0)0
(0)0
(0)19
(7.5)108
(42.5)465
(183.1)
平均降水日数 (?1.0 mm)10.010.211.310.39.98.18.710.510.211.513.012.5125.9
平均月間日照時間82.184.9135.1176.8198.1158.1134.5148.4162.4154.396.175.01,608.9
出典1:Japan Meteorological Agency
出典2:気象庁[5]

地域
住宅団地

みどりヶ丘団地

消滅集落

2015年国勢調査によれば、以下の集落は調査時点で人口0人の消滅集落となっている[6]

森町 - 字清滝、字桂川、字三岱、字栗ケ丘

人口


森町と全国の年齢別人口分布(2005年)森町の年齢・男女別人口分布(2005年)
■紫色 ― 森町
■緑色 ― 日本全国■青色 ― 男性
■赤色 ― 女性
森町(に相当する地域)の人口の推移

1970年(昭和45年)23,761人
1975年(昭和50年)23,563人
1980年(昭和55年)23,467人
1985年(昭和60年)23,017人
1990年(平成2年)22,142人
1995年(平成7年)21,006人
2000年(平成12年)20,233人
2005年(平成17年)19,149人
2010年(平成22年)17,860人
2015年(平成27年)15,946人
2020年(令和2年)14,338人

総務省統計局 国勢調査より

隣接自治体
渡島総合振興局


北斗市

茅部郡鹿部町

亀田郡七飯町

二海郡八雲町

檜山振興局


檜山郡厚沢部町

歴史

[7]
古代

紀元前4千年紀 - 砂原二ツ山や尾白内に縄文の人々が住んでいた。土器や石器が発見される(昭和38年)。

紀元前2千年紀 - 縄文文化が栄える。この頃に環状列石(北海道内では最大、全国的にみても3番目となる)が作られたと見られ、イカ形土製品も出土される[8][9]

古来より先住民族アイヌの集落が形成されていた。

中世
戦国時代


1532年 - (享禄5年)青森県蟹田村から権四郎が旧砂原町地域に移住・開村し部落が形成された[10]

安土桃山時代


1560年 - (永禄3年)内浦権現神社創建、砂原岳(駒ヶ岳)中腹の岩窟内に三神奉祀。

1601年 - (慶長6年)上磯町の有川より千歳末吉が鷲ノ木地区に移住したのが和人の定住の最初と言われる。

近世
江戸時代


1640年 - (寛永17年)駒ヶ岳が有史始まって以来の大噴火。直下の湾岸一帯に大津波が発生し、被害をもたらす。

1661年 - (寛文元年) 鷲ノ木地区の和人戸口が増加し、「鷲ノ木村」と称するようになった。一説によると1624年の可能性もある[11]

1666年 - (寛文6) 円空上人が、砂原村内浦神社に仏像1体を奉納[12]

1694年 - (元禄7年)駒ヶ岳噴火、火山雷を伴う大噴火。

1738年 - (元文3年)鷲ノ木村が本村となり、森・蛯谷古丹・棒美・本茅部・石倉を支村して村落が形成されていった。

1751年 - (宝暦元年)ニシンの漁場(茅部場所)として沿岸部に集落が形成された[13]

1757年 - (宝暦7年)この頃茅部場所では、加工技術が発達していなかったことから、豊漁だったニシンが大量に放置されていた。そのため、これを土中に埋め、その上に鯡供養塔を建てた[13]

1765年 - (明和2年)駒ヶ岳噴火。

1784年 - (天明4年)駒ヶ岳噴火。

1789年 - (天明9年)鎮撫隊の利用に供する為、馬20頭を砂原より海上絵鞆に送る。これをもって蝦夷地馬飼育の起源とする見解がある。また、このころ、砂原が茅部場所枝村鷲ノ木より別れ一村をなす。

1791年 - (寛政2年)菅江真澄が砂原村に来村する。

1796年 - (寛政8年) 英国船プロビデンス号内浦湾に入り、噴火湾と命名。

1799年 - (寛政11年)東蝦夷地が幕府の直轄となり、砂原に分屯陣屋を設置する。

1805年 - (文化2年)加賀屋半左衛門が元濁川地区(濁川カルデラ)に温泉場の開設を幕府へ願い出、間宮林蔵が巡見に来て、温泉場の開発が始まる。

1856年 - (安政3年)南部藩により現砂原3丁目に砂原分屯所(南部陣屋)が作られていた[14]。また同年駒ヶ岳が大噴火する。

1858年 - (安政5年)箱館六ケ所が箱館奉行所より正式に「村」となったのをきっかけに、森・尾白内が鷲ノ木村より独立し、森村・尾白内村が成立した。

近代
明治時代


1868年 - (明治元年)榎本武揚土方歳三を初めとした幕府軍が江戸品川沖を出港し、開陽回天など8隻が鷲ノ木沖に到着し、箱館戦争の始まりとなった。この幕府軍にはジュール・ブリュネアンドレ・カズヌーヴらフランス人士官らが参加していた。上陸後、榎本軍は、森・尾白内・砂原と移動し、四軒町・会所町・彦澗・松屋崎に台場を設けた。

1872年 - (明治5年) 開拓使森出張所を設置、管轄は森村、尾白内村、鷲ノ木村、宿野辺村の4村であった。函館に次ぐ道南の主要地となる。また、同年、森村産出の茅部栗を材木とし、日本では初と言われる防腐処理(防腐剤は鷲ノ木村で湧出していた石油を使用)を施された桟橋が築造され、完成とともに室蘭港との定期便が運行された。

1873年 - (明治6年) 札幌本道(日本初の本格的馬車道)の開通に伴い駅逓所ができる。札幌本道は、函館?森間は道路、森?室蘭間が海路とされた。また、同年10月にベンジャミン・スミス・ライマンにより鷲ノ木の地質調査が実施された。

1875年 - (明治8年) 砂原出張所の廃止により掛澗、砂原、鹿部、熊泊、臼尻、尾札部が森出張所に業務移管された。同年、鷲ノ木村より独立した蛯谷村、石倉村が加わり、更に翌年に落部村も加わり13ヶ所の村を管轄した(1876年頃まで)。

1878年 - (明治11年) 平取集落を目指し、函館を出発したイザベラ・バードが森村の旅館で一泊し、当時の村の様子を日本奥地紀行へ書き記した。


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