森田順平
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その構図がスタジオと酷似しており、その頃から現在の声優の仕事に対する意識があったと語る[11]。学芸会でもそこそこの役をもらっていた[5]。小学校4年生の時に教師の推薦で、福岡教育大学主催の文化祭で三つの附属小学校の代表に選ばれて、大学の講堂で朗読していた[5][6]。大勢の前で壇上に立つのは緊張していたが、評価されたことが自信になったという[5][6]

福岡教育大学附属小倉中学校[4]時代の文化祭の時にクラスの対抗の演劇コンクールで3年連続優勝[5]。中学1、2年生の時に芝居を評価してくれた担任の教師に出会ったことが、最終的に役者の道を進んだきっかけとなったという[5][6]。進路相談の時に教師が母に「高校には行かんと上京して劇団に入団したらどうね」、「高校に行かんで、東京で役者になった方がいい」と言っていたという[5][6]。同時期に油絵クラブに入部して、油絵を描いていた[5]。指導していた教師にも影響されて将来は美術大学に進学しようかとも思っていたという[5]福岡県立小倉高等学校[12]に進学後、当時は休部状態だったが、附属中学校の演劇好きだった先輩たちからの指名で夏休み前に復活した演劇部で高校1年生の時に部長として活動[4][5][6]。不条理演劇を扱って、3年目で市大会優勝、県大会2位、九州大会進出という快挙を達成した[6]。高校時代にははっきりと既に役者になろうと思っていたが、父が「せっかく小倉高校に入ったやけん、大学は行け」と言われ、日本大学[2]芸術学部演劇学科[1][9]に進学[5]。「早く世に出るためには文学座がいい」と考えて、大学4年生の時に文学座研究所に入所し、同大学在学中に文学座[2]の研究生となる[5][6]

1977年に『金木犀はまだ咲かない』で初舞台を踏む[4][6][13]。同年、NHKの新人オーディションに参加して大河ドラマ花神』でテレビデビュー[4][5][6]

1979年開始の『3年B組金八先生』に数学教師・乾友彦役で約30年間出演した。1995年に文学座を退座後、フリーで活動してスケジュール調整、ギャラ交渉もしていた[5][6]。しかし先方に迷惑をかけることも多々あり、1998年にあるプロデューサーから紹介されたマウスプロモーションへ所属して以降は声優業も行うようになった[1][5][6][9]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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