森永卓郎
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その後、『ニュースステーション』の番組制作を担当していた芸能プロダクションであるオフィス・トゥー・ワンに所属[注 3]。なお、放送メディアに出演し初めた40歳当時の髪型はリーゼントであった。

再び所属会社が合併し、2005年に三菱UFJリサーチ&コンサルティングとなってから、同社からメディア取材時の稟議書提出を求められ、取材が1日10本ペースだったため、稟議をあげる手間に嫌気が差し、2004年から、父の京一が毎日新聞社退職後にかつて教鞭を取っていた[注 4][10]獨協大学の特任教授に就任し[4]、その後、特任で契約していた同大学との教員契約を優先し、2006年4月に経済学部教授に就任[8]。ただし、この時期も並行して2005年4月から同社客員研究員を2007年3月まで担当した。以後、大学教授の肩書きでタレント活動を行っている。
がん闘病

2023年12月27日、ステージ4の膵臓がんであると公表した[11]。ガン公表を進言したのは息子の康平である。週刊女性PRIMEのインタビューによると「当初、すい臓がんステージ4と医師に診断されたものの、「原発不明がん」の結論に至り、ゆえに大もとのがんをやっつける抗がん剤は見送りに。がん免疫療法薬のオプジーボを投与しつつ、自身の免疫機能を強化してがん細胞と戦っているということ」と語っており、ステージ4の膵臓がんではなく、原発不明がんであると明かした[12]

2024年4月9日に公開されたインタビューでは以下の通り説明している。体調は戻ったが、体力は戻らず階段は10段ずつしか上がれず、要介護3である。結婚後41年だが、妻とこれほど一緒にいたのは初めてで新婚気分である。働きづめで1日22時間労働の時もあり、働き方改革の真逆であった。7-8年前に糖尿病を患い、その後検査を続けていたが、体重の減少が顕著であったため、人間ドックを受けた2023年11月にがんが見つかり、最初の診断で「来年のサクラは見られない」と宣告された。その際、動揺はなかったが「どうやって後始末をつけるか」(書きかけの著書のことなど)を考えた。決断したのは「とにかく権力と戦う」ということであった。ペット検査での診断結果では膵臓のがんの原発が疑われたが、生体検査内視鏡ではどちらもがん細胞が見つかなかったものの、主治医の診断は「すい臓がんステージ4」であり、見えない原発巣が膵臓にあるだろうというものだった。セカンドオピニオン、サードオピニオンの結果も同じであった。12月末ごろにこの結果をもとに「アブラキサンパクリタキセル)」ほか2種類の抗がん剤を投与したが、直後急速に体調が悪化し、「三途の川が見えた」。点滴で「栄養剤らしきもの」を投与され、それが劇的に効いた。その後、アメリカ血液でのがん遺伝子パネル検査(遺伝子検査)の結果、95%はすい臓がんではないと判明。腫瘍マーカーでもすい臓がんの反応がなくなっていた。では、どこにがんがあるのかを医者に聞いたが「全くわからない」レアケースである「原発不明がん終末期」と診断され、抗がん剤を打てない状況となったが、このケースではオプジーボが保険で打てる状況となり、同時に「免疫細胞療法」を受けた。妻とは終日一緒にいるが、ほぼ菜食主義の妻と肉食の森永では全く好みが異なり、食事は別に作っている。長男康平は機械音痴でペイペイすら使えないほどで、また「オタク心」は全くわからず、次男に口述筆記を依頼していること、自身が運営する博物館は、次男に任せていること、初めて家族で花見をする予定になっていること、煙草は1日1本にしていることなどを語った[13]
人物

プライベートでは2歳年下の妻と結婚。婚姻理由は森永が感情的に“怒らない”事が決め手となったとしている
[14]。前述のJTの退職については、事後承諾であったとしている。シンクタンク研究員時代から、卓郎が仕事で自宅への帰宅が遅く、休日でも家族と過ごす日数が少ないため、後に誕生した長男である康平、次男との家庭内では「母子家庭である」コンセンサスを取っており、森永を赤の他人扱いをしていた時期がある。そのため、外食をするため外出しても、卓郎には変装をさせ、時間差で動くように指示していた[15]。また、後述の森永の趣味により、赤字を垂れ流している状態について、家族には「コレクションはともかく、博物館はやりすぎ!!」と呆れられ、妻からこの状態を含めたそれ以外の件で「もう私は出て行く!」と愛想を尽かされていた[16]

1日5食、朝起きてすぐにカツ丼をぜんぶ食べ切るなど1日の摂取カロリーは、推定5000キロカロリー以上、平均睡眠時間4時間、運動もほぼせず、ヘビースモーカー体重はかつては89.8s、体脂肪率は30%超え、ウエスト114cmの肥満体だった。2009年には、医師から糖尿病の診断を受け、さらには尿路結石を患い、医療費が毎月1万円以上かかっていた時期もあった。しかし、低糖質ダイエットを行い、4カ月で体重は69.9kgへと19.9kg減、ウエストは91cmへ23cm減、体脂肪率は半減。糖尿病も改善し、インスリン注射も投薬も不要になったという。低糖質ダイエット中、主食は豆腐であった[17]

1985年の経済企画庁出向時、経済モデルの分析結果でバブルが来ると確信して情報発信をしたが、誰も信じて貰えず頭に来て、地価上昇を証明しようと、年収300万円でありながら現在の居住地である、埼玉県所沢市小手指に中古の一戸建てを購入した[8][18]東京23区出身である森永が小手指に中古戸建てを購入した理由は、妻の実家が狭山ヶ丘に所在し、距離的に近かった事である[19]。また、その後のタレント活動で得た収入で「B宝館」をオープンするため同市内に賃貸ビルを購入した。

前述の森永と妻の間で溝が出来ているもう1つの理由が、父である京一が2006年、実家が所在する高田馬場から目白に買い物に出掛けた際、脳出血で倒れ左半身麻痺が残った際、1人暮らしだった父親をいきなり介護施設に入居させる事をためらい、小手指の自宅に引き取り自宅介護を妻に押し付けてしまった経験がある[14][20]。その際、妻から介護の限界から離婚を突き付けられたが、結局は父親の病状悪化に伴い、介護施設に入居させた。

タレント活動開始以後、平日中央区八丁堀に所在する自身の個人事務所で寝泊りし、メディア出演を行っている。また、元来後述のコレクションに自分のリソースを割く事は厭わないが、その他の支出についてはケチであるため、近所のスーパーマーケットに夜半通い、見切り品で割引シールが貼られている商品のみまとめ買いを行ない[21]、帰宅後テーブルに並べ、その際に1週間分の献立を考え、献立に従って小分けし冷蔵庫保存を行い、週1000円の食費で生活を送っていたり[22]、テレビ出演で番組から提供される楽屋弁当に対しても、所属事務所のマネージャースタイリストの分と3つ用意されているのに関わらず、2人の分を持ち帰るのが当たり前になっていたり[23]鉄道乗車券の払い戻し手数料が勿体無いから乗車区間変更で手数料を回避したり[21]、原稿を執筆するノートパソコンは中古品[21] と多数エピソードがある。そのため、番組で共演した有吉弘行から「ケチだぬき」とあだ名を名付けられた[23]

プロ野球が大好きで、横浜DeNAベイスターズのファンである。ただし、ファンになった理由は父親が商売敵である讀賣新聞がオーナーを務める、「読売ジャイアンツの試合を見てはいけない」事が家訓で、ジャイアンツ戦しか放送されていない時代に森永の目黒区、新宿区の自宅でも視聴可能であったホエールズ戦のナイター中継(テレビ神奈川)を視聴していた事がキッカケであった[24]


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