明治8年(1875年)、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。駐英公使をつとめていたときに、ハーバート・スペンサーから大きな影響をうけたといわれる。
同年2月6日、福澤諭吉が証人となり、幕臣広瀬秀雄の娘広瀬常との結婚に際して3か条を交換して婚姻契約書に署名し結婚した(第3条に夫婦の共有物は無断で処分してはならぬ旨条項あり)。契約結婚のはしりと言われた。
同年11月、清国公使になる。明治9年(1876年)1月、保定府(北京の南方)で李鴻章と会談。
明治12年(1879年)11月、英国公使になる。
明治18年(1885年)12月22日、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任し(死没日まで)、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)を「教育の総本山」と称して改革を行うなど、日本における教育政策に携わる。また、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配る。
明治19年(1886年)には、学位令を発令し、日本における学位として大博士と博士の二等を定めたほか、教育令に代わる一連の「学校令」の公布に関与し、様々な学校制度の整備に奔走した。黒田内閣でも留任。
明治20年(1887年)4月には、大日本教育会の果たすべき役割の重要性について私案を提出している(1884年の学習院講堂で開かれた常集会でも大木喬任とともに演説を行っている)[5]。
しかし明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去[6]。43歳だった。
当時の新聞が、「ある大臣が伊勢神宮内宮を訪れた際、社殿にあった御簾をステッキでどけて中を覗き、土足厳禁の拝殿を靴のままで上った」と報じ(伊勢神宮不敬事件)問題となった。この「大臣」とは森のことではないのかと、急進的な欧化主義者であった森に人々から疑いの目が向けられる事となった。この事件は事実かどうかは定かではないが、この一件が森が暗殺される原因になった。木場貞長はのちにこの事件は事実無根であると書き残している。
人物森有礼(1871年)
英語の国語化を提唱(国語外国語化論)。
森の国語英語化論においては、馬場辰猪・西周・清水卯三郎・黒川真頼が反対の説を唱えた。黒川真頼は明治8年(1875年)6月、『言語文字改革ノ説ノ弁』を『洋々社談』第二号に発表し、痛烈に批判した[7][8]。
森の急進的な考えには当時の大衆の感覚とは乖離したものがあり、「明六の幽霊(有礼)」などと皮肉られもした。
明治4年(1872年)に設立された日本アジア協会の会員であった(設立時点で唯一の日本人会員[9][10])。明治6年(1874年)2月の例会で神道に関するディスカッションが行われた際には、「神道の中心思想は死者に対する敬虔な崇拝だ。日本の絶対主義的現政権を維持するために政府が巧みにこれを政治利用したことは実に正当だったと考えるが、日本の初期の歴史記録とされている書物は信頼に値するとは到底言えない」という意見をのべている[9][11]。
広瀬常との結婚は、日本における最初の契約結婚となった。契約は「それぞれが妻、夫であること」、「破棄しない限り互いに敬い愛すこと」、「共有物については双方の同意なしに貸借売買しないこと」の3条から成り、福沢諭吉が証人となった[12]。常とは、結婚11年目に常の素行上の理由で双方納得のうえ離婚した[12]。
将棋を愛好し、福沢諭吉・服部金太郎・芳川顕正らとともに名人小野五平の後援者であった[13]。
家族
父・森有恕、母・阿里
長兄・喜藤太有秀、次兄・喜八郎(青山良顕)、三兄・三熊(夭折)、四兄・喜三次(横山正太郎安武。1870年政府に建白し自刃)
最初の妻・広瀬常(1855年生)。静岡県の士族広瀬秀雄の長女[14]。開拓使女学校卒[15]。1875年に森と契約結婚し、外交官の妻として英国に4年半滞在、帰国後離婚[14]。森との間に3児。長男・森清(貴族院子爵議員)[16]。