森昌子
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4月、幻冬舎から初エッセー集『明日へ』を刊行。その後、和田アキ子・片平なぎさ榊原郁恵らにより、『おかえり! 昌子 激励の会』が開かれ、関係者700人が詰め掛けた。5月、『NHK歌謡コンサート』でテレビに復帰。『哀しみ本線日本海』『越冬つばめ』『父娘草』を涙ながらに熱唱した。以後意欲的にテレビ出演などの活動を行う。6月7日、古巣のポニーキャニオンから20年ぶりの新曲『バラ色の未来』をリリース。ジャケットタイトルは森大衛揮毫)。この年の暮れには、同曲で第57回NHK紅白歌合戦に5年ぶりに出場した。元夫・進一との競演が注目されたが、結局順序をずらしての出演となり、2人が同じステージに出演する場面は一度も無かった。なお、2007年(平成19年)以降、紅白には出場していない。

2007年 上期のNHK連続テレビ小説どんど晴れ』で女優業を本格再開。7月13日には22年ぶりのドラマ主演となる金曜プレステージお母さん ぼくが生まれてごめんなさい』放送。

同年9月26日、体調不良を訴え、急性肺炎により急遽入院。同日予定していた熊本のコンサートを始め、同年内のツアーの中止を発表。

2008年2月5日、『NHK歌謡コンサート』で『越冬つばめ』を歌い、芸能活動を再開した。

同年3月31日、ホリプロを退社。4月1日に個人事務所おんがく工房を設立。

2009年2月28日個人事務所、おんがく工房より通販による新曲『子供たちの桜』リリース。

同年5月、子宮筋腫の手術を受ける。

同年12月31日、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』大晦日年越しSP『絶対に笑ってはいけないホテルマン24時』の中で、デビュー当時の髪型、衣装で『せんせい』を熱唱した。

このころから更年期障害貧血、デビュー当時の歌唱力を失った自信喪失などからうつ状態に陥る。

2010年5月17日、子宮頸癌治療のため、子宮を全摘出手術[5]。癌と知って一時的に自殺願望が生まれたことを告白、退院時の記者会見の模様も放送された。

2011年3月23日、レコード会社を ⇒ホリデージャパンに移籍。新レーベル、ハートソングレコーズから『洗濯日和』をリリース。

2012年11月21日 レコード会社をキングレコードに移籍し「人生に乾杯」を発売

2016年7月1日 デビュー45周年を迎えた、同日、記念シングル「百年の恋歌」 アルバム「百年の恋歌?時を終えて』を発売。当日は自身初のクラブでの記念ライブショーが東京丸の内の「コットンclub」で開催された。

2019年3月25日、年内限りでの芸能界引退を所属事務所が発表[6][1][7]

12月25日、故郷の栃木県宇都宮市でのコンサートをもって活動終了。

特記事項
親交


美空ひばりに大変可愛がられていた。ひばりがテレビ局に共演を持ちかけ、昌子を楽屋に呼んだことが最初の対面である。そのときひばりの歌を歌って気に入られ、自宅に招かれて、直接歌を習ったりすることもたびたびあった。ひばりは自らを「オネエチャマ」と呼ばせ、レッスンが遅くなると彼女を自宅に泊めたりもした[8]

美空ひばりからはプライベートで「マチャコ」と呼ばれていたが、初対面での印象「まあ、ちっちゃい子」から「マチャコ」と呼ぶようになった。ひばりはプライベート以外TV・ラジオなど公の場では絶対に「マチャコ」と呼ぶことはなかった。愛川欽也が「僕が『マチャコ』と呼んだとき、ひばりさんから『森昌子』って名があるのよと注意された」と述懐している。

カバー


演歌の大御所、都はるみのヒット曲『大阪しぐれ』をはじめとした数々の楽曲をカバーする。演歌特有の泥味を感じさせないその歌唱はテレサ・テンと双璧をなすと言われることがある。

物まね


南沙織、あべ静江、小柳ルミ子の歌マネは絶品で最近売れてる本職のモノマネ芸人よりも完成度が高く、声だけ聴いてたら当人と聴き分けが困難なほど上手い物真似で清水ミチコやコロッケも脱帽した。

先述の通りものまねが上手かったため、ある生放送番組でアグネス・チャンといたずらをしかけた。自分の手番にアグネスがこっそり音声をオフにし、舞台裏から昌子が別のマイクで彼女の歌をあてた。スタッフ一同誰もそのことに気づかず、昌子がばらしたときは怒られるどころか、ものまねの上手さに驚かれ賞賛されたという。[9]

その他、八代亜紀、仲間由紀恵などものまねのレパートリーの幅は本職のモノマネ芸人よりも多いくらい幅がひろい。

いたずら


若い時はかなりのやんちゃで、八代亜紀がよくいたずらのターゲットになった。髪の毛をかためるスプレーを缶一本使い切る程ふりかけたり、八代が綺麗なヒラヒラのドレスを着ていた時、中身がどうなっているか確認するためめくったりした(本人いわく「ビラ?ンとまくったら足だった」)。八代が1977年(昭和52年)第28回NHK紅白歌合戦の紅組トリで「おんな港町」を歌い出す時、昌子がマイクのコードを知らずに踏んでいて、あやうくステージ中央に間に合わないところだったことを、30数年の時を経て本人に謝罪した。ただし昌子は、それが『舟歌』の時だと記憶違いをしていた。

中三トリオ


中三トリオと呼ばれた昌子、百恵、桜田の三人は、生放送本番直前まで一緒にトイレに隠れたりして、スタッフをよく困らせていた。山口百恵が引退して約3年経った1983年12月の『週刊読売』での徳光和夫との対談では「二人とは全然会ってません。ぷっつりですね。電話で話すこともありません。思い出っていっても、つい最近のことだったんだから、三人集まって話をするようなことは別にないし、今あっても、せっかく中三トリオから高三トリオっていう名前がついてたものが、何かぺらっぺらのすごく軽いものになっちゃっていやなんですよね」などと述べ[10]、2006年の昌子の著書『明日へ』では、三人はそれほど親しくはなく、ハワイに行った時も同室で気まずい空気になった、と述べているが、一方で自伝的エッセイ『それはじんせい』(2011年)の付属写真では、昌子が桜田の頬にキスする程親しい仲である、と書いており、内容が矛盾している。


デビュー前の山口百恵は昌子の付き人であり、昌子の家に下宿していた。

家族


子煩悩で子育てに厳しく、挨拶は徹底し、偏食しないよう気を遣い、兄弟間でも長幼有序を守らせた。成人後も弟は兄に敬語で話すという。また、テレビに自身の映像が映りそうになると素早く察知して電源を消すようにし、国民のアイドルではなく子供達だけの母親であるように努めたという。

その他


2005年頃より通信カラオケシステムDAMの機種改良に伴い、同機種で配信する森の代表曲で背景映像に森本人が出演する映像が多く採用されている。主な作品は以下の通りである。

あなたを待って三年三月

哀しみ本線日本海

立待岬



@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}父親ゆずりのプロ野球読売ジャイアンツファンである。[要出典]


19歳の時に、単身でアメリカのロサンゼルスへ旅行。友人宅に泊めてもらい逗留しつつ、アメリカの若者を観察して、アイドルとして輝いているはずの自分がアメリカの若者に見られるような輝きを持っていないのはなぜか、と考えたという。

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回回曲目出演順対戦相手備考
1973年(昭和48年)/
第24回せんせい03/22野口五郎
1974年(昭和49年)/第25回2おかあさん09/25菅原洋一
1975年(昭和50年)/第26回3あなたを待って三年三月09/24にしきのあきら
1976年(昭和51年)/第27回4恋ひとつ雪景色13/24三橋美智也
1977年(昭和52年)/第28回5なみだの桟橋[注 2]22/24春日八郎
1978年(昭和53年)/第29回6彼岸花20/24三波春夫
1979年(昭和54年)/第30回7ためいき橋20/23森進一
1980年(昭和55年)/第31回8波止場通りなみだ町20/23千昌夫
1981年(昭和56年)/第32回9哀しみ本線日本海22/22北島三郎紅組トリ
1982年(昭和57年)/第33回10立待岬18/22細川たかし


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