元禄5年(1692年)江戸深川にいた芭蕉に入門[3]。従来、六芸に通じた多芸の才人であったことから、芭蕉から、「許六」と言う号を授けられたと言われて来た[3]。しかし、許六の号は、元禄4年の発句など芭蕉入門以前から見え、芭蕉が与えた号との説は成り立たない[7]。また、六芸に通じたことに由来とするという点も、許の字に何かに通じるとの意味はなく、疑わしいという[8]。その上で、宝蔵院流の免許「六韜」の伝授を許されたことに由来するのではないかとの説が唱えられている[9]。
芭蕉への入門に際し、許六が詠んだ「十団子も小粒になりぬ秋の風」と言う句を芭蕉は激賞した[2]。許六が芭蕉から指導を受けたのは10ヶ月に満たないが、芭蕉は許六に俳諧を教え許六は芭蕉に絵を教えたと伝えられる[3][5]。元禄6年(1693年)彦根に帰る際に芭蕉から「柴門之辞」と俳諧の奥伝書を授けられた[5]。
彦根では、芭蕉遺愛の桜の木を切って芭蕉像を作り河合智月(智月尼)に贈ったと伝えられ、また芭蕉の門人で彦根西郊平田にある明照寺の住職河野李由とは、元禄15年(1702年)俳書「韻塞(いんふたぎ)」・「篇突(へんつき)」などを共同編集し、彦根の俳諧界をリードした。また、宝永3年(1706年)「十三歌仙」、正徳2年(1712年)「蕉風彦根躰(ひこねぶり)」、聖徳5年(1715年)「歴代滑稽伝」(同五年)など選集や作法書を編んでいる。そして門人として直江木導・松居?村・北山毛?・寺島朱迪などを指導した。
晩年、宝永4年(1707年)52歳頃から癩病を病み、同7年(1710年)井伊家を辞し、家督を養子の百親に譲る。(旧暦)正徳5年8月26日(1715年9月23日)に死去した。
娘婿の百親は、宍戸氏の出で、安芸宍戸氏の宍戸隆家の孫、宍戸景好の直系子孫に当たる(宍戸景好 - 元真 - 知真 - 森川百親)[10]。寛永14年(1637年)頃に百親の祖父宍戸元真が萩藩を辞して、彦根藩士となった。養父同様宝蔵院流槍術鎌十文字槍の名人で、「宝蔵院流十文字目録並目録外」を記して後世に伝えている。[11]
著作
俳文集??「風俗文選」
10巻9冊(5冊本もある)からなり、芭蕉の遺志を継ぐ最初の俳文集。宝永3年(1706年)9月に京の井筒屋庄兵衛から最初は「本朝文選」と題して刊行され、後に「風俗文選」に改められた。芭蕉および宝井其角・服部嵐雪・内藤丈草・向井去来・許六ら蕉門俳人28人の俳文約120編を「古文真宝後集」に倣って辞・賦・紀行などの21類に分けて収められた[12][13]。風俗文選文章を通じて許六の多才な人生体験を物語っている[5]。
俳論 ??「青根が峯」・「歴代滑稽伝」
代表作(句)
秋も早かやにすぢかふ天の川うの花に芦毛の馬の夜明哉茶の花の香や冬枯の興聖寺苗代の水にちりうく桜かな水筋を尋ねてみれば柳かなもちつきや下戸三代のゆずり臼
エピソード
許六百華賦(井伊家史料保存会所蔵)
許六百華賦の文章は風俗文選の百華ノ譜に納められたものと同じ。紫陽花図には許六による紫陽花の絵と共に「あちさいの花は 色白に肥ふとりたるが ちかくよりみれば 白病瘡のあとのすき間もなくて 興さめてやみぬ」と言う文が書かれている[5]。狩野派本流の画風で俳画風な味を加味した絵にかろやかに文が記された詩画一体の作となっている。
山水の譜
風俗文選の山水の譜には唐の王維の画論を基に自説を述べている。「絵をよくするには、まず風雅を知らなければならない。古人が画中の詩、詩中の画と言っているのはこのことを言っている」と記した。絵を描くのは風雅を愛するために行い、風雅を愛するのは絵を愛するためとする「詩画一致」の論理である[5]。
蕉門二世
自ら「蕉門二世」と称し、「先師(芭蕉)の発句の作り方の前後をよく知り、俳諧の底を抜いて古今にわたる者は五老井一人だ。」と強い自負を抱いていた[2]。
奥の細道行脚之図
元禄6年(1692年)、絹本著色、天理大学附属天理図書館蔵。『奥の細道』の説明の際にしばしば掲載される代表的な図。笠を手に杖をつく芭蕉、その後ろには随行者の河合曾良。同時代に奥羽を行脚する芭蕉と、容貌を表した資料が少ない曾良を描いた貴重な作例である。
龍潭寺襖絵(彦根市指定文化財)
井伊家の菩提寺龍潭寺には、許六の作と伝えられている牡丹に唐獅子をはじめとする襖56枚、合計104面に及ぶ障壁画がある[14]。