森山周一郎
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カメラマンの学校を出ても、18歳くらいにはカメラは触らせてもらえず、ケーブルをさばいたりするだけのアシスタントしかやらせてもらえないことから、面白くなく、「撮る方をやるのなら、撮られる方を勉強しても間違いはないんじゃないか」と思って役者の勉強を始めたという[7]

俳優座の養成所に入るために予備校に半年ほど通い、劇団東芸の『蟻の街の奇蹟』を見て感銘を受け、劇団東芸の第1期研究生として入団した[8][6][7]
俳優・声優として

日本大学藝術学部映画学科中退。劇団東芸[1]オールアウト[9]を経て、オフィス森山に所属。

俳優としては、1954年3月、劇団東芸研究生九十業公演『長女』(阿木翁助作・演出)の主演で初舞台を踏む。多くの舞台に立つ一方で、テレビドラマ1954年放映のNHK初の連続ドラマ『夢見る白鳥』第5回にバーの客役でデビュー[10][11]。以降は映画も含め多くの作品に出演。刑事ドラマ特別機動捜査隊』ではセミレギュラーの刑事役で出演し、1970年代から90年代にかけての全盛期の時代劇やアクション系作品では、黒幕や暴力団幹部などの重厚な悪役として活躍した。

声優としては渋い声質を買われ、吹き替えの草創期から活躍。ジャン・ギャバンをはじめ、リノ・ヴァンチュラスペンサー・トレイシーテリー・サバラスチャールズ・ブロンソンのようなハードボイルドな俳優を多数担当した。アニメではスタジオジブリ作品『紅の豚』のポルコ・ロッソ役が有名である[8]

1999年7月23日、脳梗塞を発症するも、処置が早かったため大事には至らず復帰。ただし、手足のしびれはなかなか改善されず一過性脳虚血発作による不随意運動も起き、退院後も含め半年以上リハビリを続けた[12][13][14]。その後、晩年も精力的に活動し、後身の育成にもあたっていた。

2000年から放映されてシリーズ化した、人気テレビドラマ「トリック (テレビドラマ)」の語り部としても活躍した。
晩年

2020年12月、自宅で転倒して大腿骨と腰を骨折し体調が悪化[15]。その後、救急搬送され緊急入院。2021年2月8日21時10分、肺炎のため埼玉県内の病院で死去[16][17]。86歳没(享年88)。2020年放送のNHK連続テレビ小説エール』の権藤源蔵役が最後の仕事となった[15]

2022年10月21日には森山の半生と後輩たちへの思いをつめたドキュメンタリー映画『時には昔の話を/森山周一郎 声優と呼ばれた俳優』が公開された[18]
人物

趣味、特技は野球ゴルフ麻雀囲碁[3]。ゴルフでは、芸能文化人ゴルフ同好会の代表であった。

昭和9年(1934年)生まれの芸能人による親睦団体「昭和九年会」のメンバーだった[2]

女優赤座美代子は親戚である[19]
エピソード
声優業

独特の渋い声質について、本人は「幼稚園のころからこの声」と語っている。病院の検査では、医師から声帯が二枚半あると言われており、死後は標本にして永久保存することを勧められたという[20]

ジャン・ギャバンの吹替は、1965年NETテレビで行われたギャバン出演作の集中放送「ジャン・ギャバン・シリーズ」で初担当[21]。ギャバンとは30歳以上年齢差があったが、視聴者、同業者共に好評であったために以降は専属で担当。森山本人は後に、当たり役となったことでギャバン死後の一時期は「森山も引退か」とささやかれるほど仕事が減ってしまったと語っている[22]。また「これが後の『刑事コジャック』『紅の豚』へとつながっていく」とも回想している[23]

刑事コジャック』(テリー・サバラス)の吹替は当初、映画でサバラスの吹替を多く担当していた大平透に決まりかけていが、当時のディレクターが「吹替のためには、声優もオリジナル俳優と同じ格好で生活してリアリティを出すべきだ」と大平に対して丸坊主になるよう要求、しかし大平は当時抱えていた仕事の都合で剃髪するわけにはいかずコジャック役を断念したことで、ディレクターの要求に応じられた森山が吹替えることになった。

森山が吹き替えた『刑事コジャック』は『ニューズウィーク』が絶賛するなど当たり役となり、サバラスの吹き替えは他の作品でも専属で担当するようになる[20]。サバラス本人とも交流が生まれ「テリー」「シュー」と呼び合う仲となり、「シュー、俺を日本で有名にしてくれてありがとう」との賛辞をもらったという[20]。また、1977年放送の人形劇『飛べ!孫悟空』に「悪党ゲパルツ団長」の声でゲスト出演した際、通常本人の顔をイメージして製作されるゲストの人形は、森山でなくサバラスをイメージした人形が作られた。

TBS系ではチャールズ・ブロンソンの吹き替えを何本か担当した。その演技が評価されたことで再び脚光があてられ、大塚周夫の次に多くブロンソンを担当する役者となった。ブロンソンの吹替については「ブロンソンは合わないと思った…声帯模写じゃないから、しょせん自分の声で演じるしかないけど、それでも声をつぶして似せようと思って、煙草と酒をばかばかやって、その後の声を鼻に通すと、ブロンソンっぽくなる。それでやったら、業界で好評だったんだ」と回想している[22]

代表作となった『紅の豚』に関しては、監督の宮崎駿から直接電話でオファーがあったという。当時「アニメは子供が見るマンガ」との考えがあったことや宮崎を知らなかったことから難色を示すが、聞いていた娘が普段と違う様相で「断っちゃダメ!」とのリアクションをしたことでオファーを受諾したという。森山は後に「知らないとは怖いものである」と回想している[24]
仕事に対する姿勢

舞台出身であったことからNGを出すことはほとんどなく、中川信夫などの監督らに気に入られていた[8]。またカンニングを行うのも上手かったと自負している[8]

役者と声優の違いについては「表現する事では同じ」「体を使って人物を表現するか声のみで表現するかの違いだけ」だと述べている。そのため、声だけは自信がある、という理由で声優を志望する人物には「勘違いしている」とし、「俳優は声優をこなす事は出来ます。この私もそうだったが、しかし声優は俳優をすぐやれと言っても難しい」と発言している[25]

近年の洋画吹替の衰退ぶりには、たびたび手厳しいコメントを発していた。とり・みきによるインタビューの際、「若手で注目に値する人はいないですか」との質問に対し、「だからいつまで経っても野沢那智が新人なのよ。本人はベテランだと思ってるかもしれないけど、オレたちやもうちょっと年上の人たちに言わせれば野沢那智は新人」と回答したのが書籍にも採録されており、野沢以降に登場してきた俳優たちの声の仕事に感銘を受けたことはない、と苦言を呈している[注釈 1]


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