棋士_(囲碁)
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元代には文人の中から、『玄玄碁経』を再編した虞集劉因・黄庚などの名手が出た。

高句麗では長寿王の時代に国手である道琳という僧がいて、百済蓋鹵王の側近に送り込まれて国力を削ぐ工作をしたとある。

日本では遣唐使に加わった伴小勝雄が碁師と呼ばれており、小勝雄に習った紀夏井は少しの間に小勝雄を越えるほどになった[2]宇多法皇醍醐天皇に寵遇された法師寛蓮は、『花鳥余情』で碁聖と記されている。『二中歴』では寛蓮の他、賀陽、祐挙、高行、実定、教覚、道範、十五小院、長範、天王寺冠者といった名がある。

九条兼実は碁を好み、その邸で対局した九条良経の小童が囲碁の上手と『明月記』にある。慈円後鳥羽上皇に招かれて対局していた。鎌倉時代には玄尊による『囲碁口伝』『囲碁式』も書かれた。
近世

の初期、相礼(字は子先)が高名を馳せたが、太祖の命で楼得達と対局し、勝った楼得達が棋官の地位を得た。他に趙九成、范洪などが国手と呼ばれた。嘉靖から万暦の頃に明では最も囲碁が盛んになり、浙江省一帯の永嘉派として鮑一中、李沖、周源、徐希聖など、安徽省一帯の新安派として程汝亮、汪曙、方子謙など、北京周辺の京師派には李釜、顔倫などがいて、王世貞『?旨』では鮑一中、程汝亮、李釜、顔倫が取り上げられている。明末には、江蘇省出身の過百齢が出て、上京して国手の林符卿に勝ち、国手とされるとともに『官子譜』などを著した。他に方子振、汪幼清などが名手として名を上げた。

清朝初期には盛大有、周東侯らを打ち負かした黄龍士が最も知られ、その弟子の徐星友も国手となった。続いて范西屏、施襄夏、梁魏今、程蘭如が大家となる。清末には囲碁も水準を落とす中で、「晩清の十八国手」と呼ばれる秋航、任渭南、董六泉など、続いて周小松、浙江省の陳子仙、漢陽の徐耀文、李湛源など国手と呼ばれる棋士がいた。

室町時代に日本から明に渡った僧虚中は、林応龍と協力して『適情録』がまとめられた。『満済准后日記』『看聞御記』では召し出された囲碁の上手として、大円、式部、宗勝、一色、北野、吉原、昌阿(性阿)の名がある。その後には阿弥衆の中で、碁の上手として重阿弥が知られていた。続いて仙也、春阿弥、宗心、樹斎などが現れ、その後の本因坊算砂本能寺の僧利玄、神尾宗具、仙也の子の仙角、山の内入道、鹿塩、庄林といった者は公家や寺院の他に豊臣秀次徳川家康などの武家にもしばしば招かれて、江戸時代の家元制度の基礎となった。また北条幻庵に徳斎という者が召し出されており、北条氏直の頃には真野仙楽斎が関東での碁の上手と言われていた[3]。江戸幕府からは家禄を受ける家元として、算砂を始祖とする本因坊家、算砂の弟子の中村道碩を継ぐ井上家安井算哲に始まる安井家、利玄の禄を継いだ林家が定められた。四家は名人碁所を筆頭にして、御城碁などで切磋琢磨し、棋聖と呼ばれた本因坊道策本因坊丈和など多くの高手を生んだ。「江戸時代の囲碁棋士一覧」も参照

また本因坊算砂は朝鮮通信使にいた本国第一人者の李?史と三子で対局した。本因坊道策琉球使節の親雲上浜比嘉には四子で対局し、浜比嘉に三段を認めた。1710年の琉球使節では、屋良里之子本因坊道知に三子、相原可碩に先番で打った。
近代以降戦時中の初段允許状(昭和19年1月8日)

明治時代になると家元制度は崩壊したが、本因坊家を存続させた本因坊秀和本因坊秀栄の一門や、本因坊秀甫らによる近代的な囲碁組織方円社によって多くの棋士が活躍した。「方円社#方円社の棋士」も参照

 また女流の喜多文子吉田操子が男性棋士と互角の成績を残し、普及や組織運営にも大きな役割を果たした。

本因坊秀哉高部道平は、中国も訪問して交流を行った。この頃の中華民国では汪雲峰、張澹如、潘朗東、呉祥麟、顧水如、王子晏、劉棣懐過タ生らがいたが、三子程度の差があった。

大正末期に碁界合同による日本棋院が誕生し、雁金準一棋正社との対抗戦が世間を湧かせた。また顧水如の弟子の呉清源が見いだされて日本へ渡り、木谷實らと角錐しつつ高段へと昇った。

昭和になると終身名人制を廃して、本因坊戦などの選手権制の棋戦が多く生まれ、日本棋院と、そこから分裂した関西棋院の棋士が鎬を削った。また昭和20年代には呉清源が、十番碁で当時の一流棋士すべてを打ち込んで最強と目された。

昭和の主な棋戦優勝者:

本因坊戦 関山利一橋本宇太郎岩本薫高川格(二十二世本因坊)、坂田栄男(二十三世本因坊)、林海峰石田芳夫


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