梶原完
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翌11月に開催された戦後初の芸術祭(大学祭)では、11月9日に共立講堂で開かれた「洋楽演奏会・教官演奏会」に出演[注釈 1]ラフマニノフ『前奏曲』やドビュッシー『月の光』などを独奏し、R.シュトラウスの歌曲を歌う畑中良輔の伴奏を務め、宅孝二の2台ピアノのための作品を作曲者と二人で演奏した[12]

同じ1946年の4月16日に梶原は日比谷公会堂でデビューリサイタルを開催し、満員の聴衆を前にシューマン『謝肉祭』、ショパン『24の前奏曲』、ドビュッシー『3つの版画』、そしてワーグナー作曲リスト編曲『タンホイザー行進曲』を演奏した。その後年に2回のペースでリサイタルを開催し、1954年7月11日の第16回は「渡欧記念演奏会」と銘打ってラヴェル水の戯れ』やリスト『ハンガリー狂詩曲』などを演奏した[27]。リサイタルの他にオーケストラとも数多く共演し、1948年6月22日には日比谷公会堂早坂文雄『ピアノ協奏曲第1番』を上田仁指揮の東宝交響楽団(現東京交響楽団)と共に初演するなど[28]、何曲ものピアノ協奏曲を演奏している(「日本でのオーケストラとの共演」の項目参照)。

東京音楽学校は1949年に東京芸術大学音楽学部となり、梶原は非常勤講師、翌1950年には助教授に就任した[29]。彼の教え子には、関原和子、江口都、諸井誠、本田rがいる[30]。1949年に婦人画報社から出版された『音楽講座第1巻ピアノの技法』では、「第5章ベートーヴェンの奏法」を梶原が担当している[31]

梶原は日本での演奏活動を重ねていたが、もとよりルビンシュタインの演奏に憧れ、ヨーロッパ留学への思いを募らせていた。1952年に来日したピアニスト、アルフレッド・コルトー宛に、パリのエコールノルマルへの留学を願う手紙を送ったりした[32]。そしてついに1954年9月から1955年6月まで、文部省在外研究員としてウィーン音楽アカデミーフランクフルト音楽大学での海外研修が認められ[33]、8月末に日本を発った[34]
渡欧後の音楽活動
演奏活動

ウィーン音楽アカデミーではグレーテ・ヒンターホーファー(英語版)に師事し、フランクフルト音楽大学にも通ったが、得るものは多くなかった。しかしマネージャーでチェリストのロベルト・ネッテコーヴェンと知り合い、1955年4月にフランクフルトでヨーロッパ・デビュー・リサイタルを開催することができた[35]ウィーンでもリサイタルを開き、またマネージャーのヴァルター・ボルマンも紹介された。1955年6月にはパリでコルトーのレッスンも受けることができた。そして7月5日の読売新聞にリサイタル成功の記事が載り、同時に研究休職が認められた[36][37]

梶原はフランクフルトの南のダルムシュタットに居を構え、1956年1月にはウィーンのコンツェルトハウスで演奏会を成功させ、フランクフルト始め各地での演奏会を続けていった。芸大には2年間の休職願を提出し、各地でのリサイタルは日本でも放送されることがあった[38]。そして1958年には芸大を辞職した[39][37]。演奏会はイタリア、ベルギー、フランス、スイスに広がっていた。
アドルフ音楽院ベッツドルフの高校講堂でスタインウェイのコンサートグランドを演奏する梶原完アドルフ音楽院であった建物             

1960年にフランクフルトの北にあるベッツドルフでリサイタルをした際、聴衆で地元の内科医アルント・アドルフから、アドルフ音楽院(Adorf'schen Konservatorium)でのレッスンを依頼された[40]。アドルフ音楽院はアルントの母パウリーネが1948年に創設した個人経営の音楽学校で、自治体に公認され財政支援を受けていた。梶原はこの申し出を受け、演奏活動の傍ら週に一度ベッツドルフに通い、1962年からはベッツドルフに転居してピアノのレッスンを行った[41]。1963年1月6日にはレッスン風景や演奏会の様子が、NHKテレビ「海外の日本人」シリーズで放映されている[42]。 

レッスンの一方で演奏会は年間50回ほどをこなし、スカンジナビアからパレルモまで自動車で遠征したが、遠距離の演奏旅行は生徒たちの夏休み期間に限るようになった。1975年から1989年に亡くなるまでに20回の演奏会を行い、音楽院でのレッスンも続けていたが、糖尿病の治療にも追われていた。そして彼は1989年7月29日に自宅で亡くなった[43]
レパートリーと演奏スタイル

梶原の演奏会プログラムの構成例には次のものがある[44]。(1)ハイドン『アンダンテと変奏』、ベートーヴェン『ソナタ イ長調 op.101』、ブラームス『インテルメッツォ』『ラプソディ』。(2)ショパン『24の前奏曲』、モーツァルト『ソナタ KV282』、メンデルスゾーン『厳格な変奏曲』、奥村一『ピアノのための3つの日本民謡』、ドビュッシー『喜びの島』、リスト『即興的ワルツ』他。(3)シューベルト『ソナタ イ長調 op.120』、ブラームス『ヘンデルの主題による変奏曲』、フランク『前奏曲、コラールとフーガ』、シューマン『交響的練習曲』。

ピアノ協奏曲のレパートリーは、「日本でのオーケストラとの共演」にあげられているものの他に、ブラームス、ショパン、フランク、フォーレ、モーツァルト、プロコフィエフ、ラフマニノフ、ラヴェル、ショスタコーヴィチ、シューマン、R.シュトラウス、ウェーバーの協奏曲がある[45]

梶原はルビンシュタインやコルトーの演奏を理想としていて、自分でもそのようなスタイルで演奏をしていた。それは19世紀から20世紀の1920年代までの、特にドイツで流布していたものだった[46]。  
評価

日本でデビューリサイタルを開いた頃は、テクニックの高さは評価されたが、芸術性の乏しさを批判するものが多かった[47]。一方で、まず技術的にしっかりした演奏をした上で芸術性をみがいていく梶原の姿勢を評価する評論家もいた[48]

ヨーロッパデビューリサイタルの評では、「日本人にもヨーロッパ音楽を演奏できる驚くべき能力があることを、実に多彩なプログラムで証明してくれた。梶原のテクニックは完璧である。心ゆさぶる緊張感があった」と絶賛された(フランクフルター・アルゲマイネ紙)[49]。1956年のウィーンでは、「種々の国の音楽が華麗なテクニックで演奏されたことに聴衆はやんやの喝采を贈った」(ウィーン新聞)、「梶原の場合には、理解とテクニックは完全に一体化されている。


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