梶井基次郎
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1901年(明治34年)2月17日大阪府大阪市西区土佐堀通5丁目34番地屋敷(現・土佐堀3丁目3番地)に、父・宗太郎、母・ヒサ(久)の次男として誕生した[7][8]。両親は2人とも1870年(明治3年)の生まれで当時数え年32歳、共に明治維新後に没落した梶井姓(同じ名字)の屋の出であった(ヒサは梶井秀吉の養女[1][7]。父親を早くに亡くし第三銀行大阪支店(安田善次郎の経営系列)の丁稚から苦労してきた宗太郎は、貿易会社海運会社)の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた[7][9]

この安田運搬所の西隣りに一家は住んでいた(中から行き来ができた)[1][7]。宗太郎はヒサとは再婚で、婿養子であった。ヒサは明治の女子教育を受け、幼稚園保母として勤めに出ていた[1][7]。同居家族は他に、祖母・スヱ(宗太郎の母)、祖父・秀吉(ヒサの養父)、5歳上の姉・冨士、2歳上の兄・謙一がいた[1][7]

基次郎が誕生した同年9月には、父・宗太郎と芸者・磯村ふく(網干出身で生家も網干姓)の間に、異母弟にあたる順三が生まれた。日露戦争の特需により安田運搬所は大砲の輸送で潤い、酒色を好む宗太郎は接待などで茶屋に通っては放蕩な日々を過ごしていた[1][7][10]1905年(明治38年)10月、基次郎が4歳の時に一家は大阪市西区江戸堀南通4丁目29番地(現・江戸堀2丁目8番地)に転居[1][7]。翌1906年(明治39年)1月17日に弟・芳雄が生まれた[7]

1907年(明治40年)4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校(現・大阪市立花乃井中学校)に入学[1][11]。式の時はを着け、平素は紺着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した[11]。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った[11]

しつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子岡本かの子の文学の話をした(基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった)[7][12]

宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった[1][7]。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが[11]1908年(明治41年)1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた[11]。同月21日には次弟・勇が生まれた[11]
父の転勤――東京?鳥羽

1909年(明治42年)12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店(のち安田商事)への転勤に伴い、一家は祖父・秀吉(大阪残留を希望)を残して上京[11][注釈 1]品川の旅館・若木屋に数日滞在した後、東京市芝区二本榎西町3番地(現・港区高輪2丁目6番地)の狭い借家に転居した[1][11][13]


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