梅田晴夫
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梅田家は東京都渋谷区[16]に転居。しばらくして宝塚歌劇団出身の女優と3度再婚するが、いずれも間もなく離婚。1959年(昭和34年)には映画女優の万里陽子[17](本名:政江)と再婚。翌年、長男望夫[18]が誕生したのを機に劇作家としての活動から退き、広告代理店博報堂に入社。この時期には仕事の関係で渡欧[19]もしている。1960年(昭和35年)には同社の取締役に就任し、2期4年間その任にあたるが、長女のみかが誕生したのを機に博報堂を退社し、日本放送作家協会常務理事に就任。世田谷区代沢に転居する。
随筆家時代

1965年(昭和40年)以降は、親から譲り受けた「梅田ビル」[20]を拠点に作家活動に専念、風俗についての研究を始め、萬物収集家を自称。若者たちに呼びかけて『雑学の会』[21]を主宰し、古今東西の雑学を収集した。その一方で『おんなの有料道路』(オリオン社 1965年)、『紳士のライセンス』(読売新聞社 1969年)など、風俗やトレンドに関する著作の執筆を始める。プラチナ#3776

1970年(昭和45年)以降の梅田は幼少時から関心を寄せてきた万年筆、時計、カメラなどの物の歴史に関する著述や海外文献の翻訳、パイプ・タバコ・ウイスキーなどの嗜好品や雑学に関する随筆集、実用書やゲーム関連書[22]など、約3年間に30冊におよぶ著書を発表[23]1972年5月には西洋骨董の同好会『GEMの会』[24]を結成し、アドバイザーとして会の運営に携わった。1970年代半ばには取材のため数回にわたってふたたび渡欧[25]1975年(昭和50年)には、梅田ビルを拠点に(株)アンティック社を設立し、西洋骨董情報誌『アンティック情報』[26]を創刊する。

1978年(昭和53年)プラチナ萬年筆株式会社と共同で、コラボレート万年筆『プラチナ#3776』[27]を開発。発売後6ヶ月で15万本もの売り上げ[28]を記録し、万年筆愛好家[29]たちの話題となった。1979年(昭和54年)には、多年に及ぶ文化史研究、雑学収集の成果を集大成した著書『博物蒐集館』全5巻(青土社)を上梓する。
晩年

1980年(昭和55年)6月、妻帯者の心得を説いた実用書『嫁さんをもらったら読む本』(日本実業出版社)を上梓。続けて共同執筆[30]による文房具についての解説書『ステイショナリーと万年筆のはなし』(東京アド・バンク 1981年)のための原稿を書き上げた後、体調不良のため8月に慶應大学医学部付属病院に入院。12月21日、肺癌のため死去。享年61。同月23日には告別式が営まれ、愛用のモンブラン万年筆や原稿用紙とともに、港区元麻布の竜沢寺に葬られた。[31]
作風
小説家としてウジェーヌ・ラビッシュ(マルスラン・デブータンによる肖像画)

梅田の作家としての出発点はラビッシュなどのフランス戯曲にあり、処女作の戯曲『風のない夜』は作者自身によると[32]、フランス戯曲からの影響が色濃い習作にとどまっていたという。小説においては母親への切なる愛情が感じられる『母の肖像』や、二番目の妻をモデルにした『五月の花』などにはフェミニストとしての梅田の一面が見られる。しかし、後年、梅田は著書のなかで、女性に対して差別的な発言[33]を行ない、物議[34]をかもした。なお、梅田が小説を書いていた期間は自作戯曲のノヴェライズを含めて5年程であり、まもなく劇作家へと転身する。
劇作家としてミュージカル『入社条件』のチケット(1955年5月、東京ヴィデオ・ホール[35]

舞台劇ではジロドゥアヌイピランデルロなどの翻訳紹介のほか、創作でもいくつかの作品を残している。なかでも『風のない夜』に続く梅田の第2作目の舞台劇『未知なるもの』は梅田の代表作[36]のひとつに数えられるが、この作品の第1稿は評論家の戸板康二から賞賛され、梅田は大いに気を良くして舞台初日を観劇したものの、脚本の未熟さに恥ずかしい思いをし、以後は役者の演技を見ながら脚本を書き直してゆく手法を取るようになったという逸話[32]が残されている。梅田と演劇との関係は晩年まで続く。
随筆家として

1960年代末ごろから趣味関連の随筆家としての活動が主になっていく。その中でも『宝石と宝飾』など、東京書房社から刊行された一連の限定出版書籍のいくつかには梅田が愛用の万年筆で署名している。この時期には50冊におよぶ著書を発表した。

1980年(昭和55年)に還暦を迎えた梅田は『嫁さんをもらったら読む本』を上梓。梅田はあとがきで、それまでの破綻の多かった結婚生活を反省し、ふたりの子供をはじめとする後の世代への遺言であると述懐し、自身の活動に一区切りをつけようとした。続けて、自身の収集家としての活動の集大成として、1884年にウォーターマンが万年筆を発明してから100周年となる1984年(昭和59年)までに『万年筆100年史』を執筆する計画を打ち出すが、果たせずに生涯を閉じた。
評価

客観的に梅田の文筆活動を総括すると、1960年代後半から1979年までが最も活発であり、自身の趣味に関する分野の著述・翻訳において最も光彩を放っていたと言える。小説・随筆・戯曲・翻訳など幅広い文筆活動を行なったが、結果的に時流に沿ったテーマの著書が多かったため、趣味人[37]の作家というイメージが強かった。著作もトレンド関連書など、その多くが時の流れとともに風化していく運命にあることは否めない[38]
作品リスト
小説

『五月の花』京橋書院 1950年

『失われた時間』京橋書院 1950年

『白い脛』京橋書院 1950年

『シジフスの手袋』京橋書院 1950年

『母の肖像
』全2巻 宝文館 1953年 (同名戯曲の小説版)

『みゆき』全2巻 宝文館 1953年 1954年 (同名戯曲の小説版)

戯曲
舞台劇

『風のない夜』
早川書房 1949年

『未知なるもの』未來社 1950年

『入社条件』 1955年

『着るものがないの』

『サイコロトバク』

ラジオドラマ

『夜汽車のマリア』 1950年代

『結婚の前夜』宝文館 1950年

『台風の日』宝文館 1951年

『鏡』 1951年
[39]

『帰らぬ人』 1951年[40]

『クリスマスの贈物』 協立書店 1951年[41]

『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』(共著)[42] 1951年?1952年

『母の肖像』 1953年

『みゆき』 1953年?1954年

『乞食の歌』 宝文館 1956年

テレビドラマ

『雪と泥』 1950年代

『殿下と結婚する方法』 1950年代

『カルメン失恋す』 1950年代

『トランペット物語』 1950年代

『さつきさん』 1953年
NTV[43]

『花やかな風』 1954年9月9日?10月28日 NTV

『山の彼方』 1955年11月20日 NTV[44]

小僧の神様』 (原作:志賀直哉) 1957年4月2日 NTV[45]

『緑に匂う花』 (原作:源氏鶏太) 1957年7月7日?9月29日 NHK[46]

『クリスマスの贈物 幸運の首飾り』 1957年12月22日 KR[47]

『未知なるもの』 1958年5月2日 NHK[48]

『探偵ダンちゃん』 (原作:島田啓三) 1958年12月27日?1959年6月20日 NTV、YTV[49]

『蓮田家の食卓』 1959年1月4日 NTV[50]

『人間万事見栄の世の中』 1959年7月2日 NET[51]


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