閉館時点で、旧梅小路機関区の扇形庫および転車台を活用した「蒸気機関車展示館」と、旧二条駅舎を移築・復元した「資料展示館」からなっていた。
扇形庫は1914年(大正3年)に建設された鉄筋コンクリート造で、2004年(平成16年)12月10日に5t電動天井クレーン(1915年(大正4年)完成)、引き込み線とともに国の重要文化財指定ならびに土木学会選奨土木遺産に選奨された。
2006年(平成18年)にはJR西日本により、旧二条駅舎(展示館)と扇形車庫・保存されている蒸気機関車一式・点検修理の工具一式などが、準鉄道記念物に指定された。
旧二条駅舎は、1904年(明治37年)に京都鉄道が本社社屋を兼ねて建設した日本現存最古の木造2階建和風駅舎で、景観に配慮しながら平安神宮を模して造られた。
京都鉄道は1907年(明治40年)に国有化され、以後は国鉄 → JR西日本の駅舎として利用されたが、1996年(平成8年)の山陰本線(嵯峨野線)二条 - 花園間高架化に伴って駅舎としての役目を終え、1997年(平成9年)に本館敷地内に移築・復元して玄関口として使用、内部は昔の切符売り場などを残し、資料展示館として活用していた。
1996年4月に京都市の有形文化財に指定された。
扇形庫には、蒸気機関車18形式20両(開館当初は16形式17両)が収容・展示されていた。
開館当初は動態保存が原則であり、梅小路への搬入前から静態保存されていたC53 45・C51 239の2両を除き15両は1979年(昭和54年)まで車籍をもった動態保存(書類上)であった[13]。
その後保存対象車両の見直しが何度か行なわれ2008年(平成20年)現在、動態保存機は7形式7両となった。うち5形式5両はその時点でも車籍を有しC57 1・C56 160の2両は、山口線の「SLやまぐち号」や北陸本線の「SL北びわこ号」など本線上での列車牽引に充当されていた。この2両は一度も廃車(車籍抹消)になっていない日本で唯一の蒸気機関車である。
上述2両以外の動態保存機は車籍こそあるものの、全般検査を受けていないため本線上での走行はできないが、館内展示用の動態保存機の牽引による「SLスチーム号」が館内の展示運転線で運転されていた。
車両基地としての機能を有し、営業線とも接続されていた。さらに1997年からは蒸気機関車の検査・整備を鷹取工場より移管している[14]。 施設の中央に位置している転車台(ターンテーブル)は第二次世界大戦期間中に原子爆弾の投下目標になっていた。 「梅」…梅小路を意味する「梅」に由来する。 梅小路機関車館内にある片道500mの展示運転線を用いたSL列車で蒸気機関車が専用の客車2両をけん引して往復し、牽引機はC62形 (C62 2) 、C61形 (C61 2) 、D51形 (D51 200) 、8620形 (8630) のいずれかが担当していた(D51 200は2014年10月に本線復帰が発表されて以降、8630は2015年2月に担当後、C61 2は2015年4月に担当後、整備のためそれぞれ担当から離脱している)。またこの指定牽引機以外の他の機関車がSLスチーム号の牽引を担当することがあった。 運転時刻は11時・13時半・15時半であるが人が多い場合は何度も往復する事があり、3回目の運転後には機関車に石炭や水を補給するため、ターンテーブルで蒸気機関車が回転する姿を見ることができた。ちなみに梅小路からの出発時は配線の関係から推進運転となるため、注意喚起ブザーを数回鳴らしながら発車していた。 京都鉄道博物館でも引き続き運行が行なわれているが、客車については再オープンに際してリニューアルされている。 梅小路蒸気機関車館の一角に設けられた延長500mの展示線で、SLスチーム号の構内運転に使用されていた。この展示線はこれまでに3回程位置と線形が変化しており、変化は以下のとおりである。 ほとんどの車両が、1972年に前所属機関区から現役車両として転属の手続きがとられている[23]が、一部は当初から無車籍・静態保存だった。 1976年(昭和51年)に指定されていたC62 1、2009年(平成21年)に譲り受けた1080を除く全車が、2006年に車歴簿・保守用工具とともに準鉄道記念物に指定されている。
開館当初は検査担当工場として長野工場(現・JR東日本長野総合車両センター)が指定されていたが、営業用蒸気機関車が全廃されたことによって保存機の保守継続が問題となったため、1979年になって動態保存機の両数を削減するとともに、検査担当工場を鷹取工場へと変更した。
前記のとおり営業線と接続していることを生かして、開館段階では週末に臨時列車などの形で周辺路線を使用した動態保存列車の運行が企図されていた[15]。実際には『SL白鷺号』(京都 - 姫路間、1972年 - 1974年運行、C62形・C61形)や奈良線・関西本線・草津線の臨時列車(1972年 - 1973年運行、D51 1。区間は複数あり)など数例にとどまり、特に1976年の京阪100年号事故の発生以降、国鉄時代には周辺線区での実施はなかった[16]。
余談
大都市の割に空襲の被害をほとんど受けなかった京都市だが、広島市と並び原子爆弾投下の最有力候補で、原爆の性能を確認しやすいように投下まで町を無傷にしていた。最終的には古都の破壊が永遠に日本人の反感を買ってしまい、戦後政策に重大な影響を与えることが懸念されたため投下目標を変更したことがアメリカの文書から明らかになっている。詳しくは日本への原子爆弾投下を参照のこと。
配置車両の車体に記される略号
SLスチーム号
展示運転線
開館時
開館当初は展示運転として機関車のみの運行であり、乗車はできなかった。
扇形庫12番の後方に線路が150m延びており、そこを利用して展示運転を行なっていた[17][18][7]。線路沿いには広場が作られ、そこから展示運転を見学できた。内容は蒸気機関車単機による展示運転が11時と13時30分の二回行なわれた。広場には売店・休憩室が設置されている
11時は150mの往復だけだが、13時30分では往復後に転車台の使用と、石炭・水の補給のための移動運転があった。(ただし、給炭作業自体は見ることができなかった。これは現役時代の設備を継続使用していたので、入館立ち入りエリアからは死角になる場所にあったため)
展示運転は単機が基本だが、まれに重連運転や客車(12系)を牽引して無料乗車を行なったこともある。それらは機関車館内や京都駅で「手書きポスター」にて告知された。
広場ではミニSL(ライブスチーム)の運転が時折行なわれた。
売店・休憩室裏には梅小路機関区職員食堂があり、1980年代中ごろまで使用されていた。ただし、職員専用である。
1992年2月以降
扇形庫の南側から南東に向かって伸びる線路に展示線を変更した[19][20][7]。長い直線をもち、複線であることを活かして蒸気機関車の三重連や並走などといった展示運転をしていた。
1994年9月以降
9月23日、第11回全国都市緑化フェア開催に合わせて梅小路公園南端を嵯峨野線を潜り併走する形に移転され、同時にSLスチーム号の運用が開始された。移転当初は400m(往復800m)だったが、1996年から始まった同博物館の大規模リニューアル工事(1997年完成)の一環として1996年10月10日に展示線が100m延伸されて往復1000mとなった[21]。
2015年8月30日以降
京都鉄道博物館へのリニューアルに向け、SLスチーム号の客車を後述の車両に置き換える関係で展示線の一部の線形が改良された[22]。
配置車両
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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