東映が全力で売り出していた波多伸二が1960年(昭和35年)、デビューから四作目で急死し、若手の主演級スターがいなくなり、プロデューサー・監督ら幹部クラスで波多に代わるスターの選考が行われた[14]。ここで大半が推したのは亀石征一郎だったが[14]、岡田茂プロデューサー(のち、東映社長)が「亀石?あいつは暗くてダメだ!梅宮がいい。あいつは仰げばどんどん上がる。ああいう奴が人気が出るんだ」と鶴の一声を発し[14]、梅宮が東映東京撮影所(以下、東映東京)の次世代スターとして売り出されることになった[14]。役者として4つの目標を掲げたが、脇役が長く続くようなら役者稼業は見切りを付けるつもりだったという[10]。初主演作『殺られてたまるか』がヒットしたため、デビュー作だった三田佳子とゴールデンコンビを組み、10数本のコンビ作が量産される[15]。しかしお互いが異性としては嫌いなタイプで[15]、三田が東映上層部に共演拒否を申し出てコンビ解消[15]。
以後、1964年(昭和39年)の『暗黒街大通り』までは「アクション映画」や「仁侠映画」で硬派な役柄で活躍していたが、段々私生活が派手になっていく梅宮を見て、岡田プロデューサーが梅宮の私生活に近いプレイボーイ、女を泣かす役柄をあてた[16][17][18][19]。これが1965年(昭和40年)の『ひも』に始まる「夜の青春シリーズ」で[20]、岡田は梅宮を着流し任?路線の裏番組のエースとして起用し続けた[20]。ここから"男を泣かせる鶴田 女を泣かせる梅宮"の名惹句が生まれた[17][20][21]。これが同じ岡田プロデュースによる1968年(昭和43年)からの「不良番長シリーズ」に至る[12][18][19][20][21]。不良番長役は、自分でも「俺のために用意された役だ、正に俺にしかできない役だ」と大喜びで、俄然やる気も増して、こうなったら東映東京は俺一人で背負って立つという自覚も芽生えた[21]。1960年代半ば以降は東映京都撮影所(東映京都)で「任侠映画」が量産されたため、東映東京の看板スターだった鶴田浩二と高倉健が東映京都に行くことが多くなり[19]、必然的に梅宮が東映東京の看板スターとなった[19]。このため女性からのモテ方は今の芸能人の比ではなかったと話している[19]。東映入社後から10数年間は毎日のように銀座のクラブに通った[22] 一番通ったのは東映ニューフェイスの一年先輩・山口洋子が経営していた「姫」で、他に田村順子の「クラブ順子」[22][23]、「クラブ麻衣子」[24]「エスポワール」[25][22]などによく通った[22]。銀座はお姉ちゃんをナンパする場所と決めていたから、お姉ちゃんを口説くのに邪魔になるため、俳優仲間とはつるんでいかず、一人で行った[22]。席に座れば、一般客そっちのけでホステスが梅宮に集まり取り合いをしたという[22]。
「不良番長シリーズ」は、最初の数本こそシリアス・タッチだったものの、梅宮を軸にした集団コメディの色彩は回を重ねるごとに強くなり、後に公私共に盟友となる山城新伍がコメディリリーフとして加わってからは、ますます破壊的なギャグが繰り出され、計16作が公開された。梅宮は「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ[26]」と述べ、自身の代表作としている[17]。続いて主演の『夜の歌謡シリーズ』、更に1970年代からは『帝王シリーズ』などを成功させた[12]。 1972年(昭和47年)、自身が経営する事務所「梅宮企画」倒産などによる多額の借金で窮地に立たされるが、クラウディア・ヴィクトリアと再婚、同年にはアンナが誕生した。1973年(昭和48年)からは『仁義なき戦い』や東映実録路線で貫禄十分の独特の存在を醸し出した[11][12][27]。同映画の監督、深作欣二とは同郷(茨城県水戸市)という縁もあった。 付き合いのあった山本健一のモデルを演じた『仁義なき戦い 頂上作戦』が公開された1974年(昭和49年)、36歳のときがんに罹り、睾丸腫瘍の診断を受けた[28]。
ベテラン俳優として