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梁と東魏・西魏。
公用語漢語(中国語)
首都建康
皇帝
502年 - 549年武帝
549年 - 551年簡文帝
(551年 - 551年)(廃帝豫章王)
552年 - 554年元帝
(555年 - 555年)(閔帝貞陽侯)
554年 - 557年敬帝
(557年 - 560年)(永嘉王蕭荘)
変遷
斉より禅譲・建国502年
西魏によって蕭?が皇帝に擁立(後梁)554年
陳に禅譲557年10月
梁(りょう、502年 - 557年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。蕭梁とも呼ばれる。
歴史
建国武帝(蕭衍)
南朝斉の建国者の蕭道成の族弟の蕭順之の子の蕭衍は、南朝斉の皇帝東昏侯の暴政で兄の蕭懿が殺害されたことに怒って、501年に荊州襄陽において藩鎮や豪族・土豪を結集して挙兵し、建康に進撃して東昏侯や側近を粛清した[1][2][3]。蕭衍は新帝に東昏侯の弟の和帝を擁立し、502年に和帝から禅譲を受けて梁を建てた[1]。 武帝は南朝宋や斉の時代に疲弊した民政の回復を図り、積極的な政治改革を行った[3]。創業当初の天監年間は、九品官人法の改定、梁律の頒布、租税の軽減などの政策によって治世は安定し、南朝の全盛期を生み出した。また自身が優れた文人でもあった武帝は、旧来の貴族の子弟が入る国子学以外に、寒門の子弟を対象とした教育施設として新たに五館を設置するなど学問を奨励したことによって、文化は大いに繁栄した。武帝の長男である皇太子蕭統(昭明太子)の『文選』、蕭統の死後皇太子となった蕭綱(後の簡文帝)らによる宮体詩を収録した『玉台新詠』は、この時期に編纂されている。
武帝の時代
しかし、50年近くに及ぶ治世の後半になると、捨身に代表される過度の仏教保護や経済政策の失敗によって財政状況が悪化し、さらに貴族層の実務忌避や台頭した寒門側近による専権が官吏の綱紀弛緩を招くなど、繁栄の陰で社会不安が深刻化した。
侯景の乱と梁の実質的滅亡武帝(蕭衍)武帝(蕭衍)詳細は「侯景の乱」を参照
548年、北朝の東魏の降将侯景が河南13州を手土産にして武帝に帰順を申し出てきた[4]。側近の朱?の進言もあって武帝は侯景の帰順を受け入れたが、侯景の手勢を支援した梁軍は東魏に敗れ河南一帯を再度奪還されてしまう[4]。東魏はここで梁との和睦を図り武帝と朱?もそれに乗ったため[4]、東魏に敗れて寿春に逃れていた侯景は窮地に立たされた。侯景は武帝の甥の臨賀王蕭正徳と内通し、1000名の軍を率いて首都建康に進軍を開始、道中で兵数を膨らまし続け、548年10月22日にこれを包囲した[5]。当時、梁は武帝の長期にわたる治世で泰平に慣れきっており、武帝と共に活躍した建国の重臣の大半も死去していた上[5]、各地に分封されていた諸侯王や宗室たちは互いの利を見て牽制しあい武帝の救援に積極的に動かなかった[6]。