侯景は武帝に代わる新しい皇帝として皇太子の蕭綱(簡文帝)を擁立したが、もちろんこれは侯景の厳重な監視下に置かれた傀儡であった[7]。ところが各地の藩鎮はこれに従わず、侯景は自ら軍を率いて物資確保のため三呉地域の平定に乗り出した[7]。一方、武帝の七男の湘東王蕭繹は建康から逃れてくる梁の残党や避難民を吸収して勢力を拡大し、江陵を中心にして侯景と対峙した。対する侯景も巴陵で激突し、蕭繹軍の名将王僧弁の活躍で侯景軍は大敗し、逆に王僧弁や陳霸先により建康に追い詰められた[9]。侯景は簡文帝を殺害し、新たに皇帝に擁立した豫章王蕭棟も天正元年(551年)10月に廃し、国号を漢として自らその皇帝に即位した。これで梁は一旦滅亡したことになる。
しかし、梁の皇族である蕭繹や武陵王蕭紀(武帝の八男)たちは侯景の即位を認めず、蕭紀は552年に蜀の地で皇帝即位を宣言し、蕭繹は陳霸先や王僧弁に擁立されて梁の正統の後継者であると名乗った。侯景は陳霸先や王僧弁の軍を迎撃したが敗北し、逃走中に部下に裏切られて552年4月に殺害され、侯景の漢はわずか5カ月で滅亡した[9]。侯景を討ち滅ぼした蕭繹は552年11月に根拠地の江陵で正式に梁の皇帝に即位し(元帝)、さらに蕭紀をも討ち滅ぼして梁を復興させた[9]。しかし、この一連の混乱の間に勢力を拡大した西魏が梁に侵攻してくることになる。
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