梁_(南朝)
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ところが北斉の意を受けた蕭淵明の即位に陳霸先が反対したため、王僧弁と陳霸先の対立が表面化し、555年9月に陳霸先は王僧弁を建康において殺害し、再び敬帝蕭方智を皇帝とした[11]。梁の実権を掌握した陳霸先は、2年後の557年10月に敬帝から禅譲を受けてを建て、ここに梁は滅亡した[11]
梁の残存勢力や帝室の後裔の動き

一方で、梁の有力将軍であった王琳は陳の建国と陳霸先の皇帝即位を認めず、北斉の人質となっていた永嘉王蕭荘(元帝の長男の蕭方等の子)を取り戻し、郢州において梁の皇帝に即位させた。王琳と蕭荘によって復興された梁は、長江の中・上流域を勢力範囲として陳に対峙した。しかし梁は天啓3年(560年)に陳に敗れ、蕭荘と王琳は北斉へと亡命した。北斉は蕭荘に梁王を名乗らせたが、まもなく北斉そのものが滅亡したことにより、梁の復興はならなかった。

また、陳が建国した段階でも江陵付近を統治する後梁は存続していた。後梁は西魏とそれに代わった北周の傀儡政権ではあったが、後主蕭jまで3代続き、587年にいたって隋の文帝によって廃された。

なお、隋末唐初の戦乱の時期、後梁の宣帝蕭?の曾孫である蕭銑が自立し、618年には梁の皇帝を称した。しかしこの政権も621年には唐によって滅ぼされた。
国家体制
軍事

武帝の50年にわたる治世は梁に泰平と繁栄をもたらしたが、そのために軍は弱体化した。それでも、梁の建国当初は北魏による侵攻が盛んで梁軍はたびたびこれを撃退しており、梁の国情が安定したのは北魏が六鎮の乱によって梁への侵攻どころではなくなってからのことである[12]。自身が武人であった武帝は、新たな寒門武人の台頭を生み出さないために九品官人法の改革とともに将軍制度の改革に着手し、武人の外号将軍位を細分化して二十二班(元の六品)以下に集中的に配することで昇進を困難にする制度を導入した[13]。武帝の政策によって、建国初期に功があった将軍は粛清を免れたものの政治の場からは排除され、代わりに宗室や儒教的教養に基づく「賢才主義」によって登用された文官が軍の要職に進出することになった。しかし、建国の重臣が引退した大通年間以降に生じた北魏の混乱の深刻化と分裂に梁も巻き込まれつつあったにもかかわらず、この基本方針を変えなかったことが致命的な失策を招くことになる[14]。侯景の乱自体も規模はそれほどではなく、兵力では梁軍が圧倒的に優位だったにもかかわらず、首都を攻められて遂には陥落にまで至ったのはその軍制の弱さにあった。軍兵は馬に乗った経験すらなく、馬がいななき跳びはねるのを見ただけで虎が現れたと驚愕する有様だったと伝わる[5]
経済

南朝では・斉の時代から貨幣経済が急速に発展して基軸通貨であった銅銭の銅の不足と私鋳による悪質貨幣の蔓延で正常な経済発展が損なわれていたため、武帝は問題を解決させるために良質な貨幣の発行に努め、通貨不安を取り除いだ結果、江南では活発な商品取引や長江の便を利用した流通経済の発展が見られるようになった[15]。ところが武帝は523年から銅銭に代わる新たな基軸通貨として鉄銭を鋳造する命令を発するという信じられない政策を打ち出したため[15]、貨幣不足自体は心配なくなっても今度は偽銭が大量に出回る結果となってしまい、貨幣の信用は無くなって530年代に貨幣の価値は急速に下落し、それが梁の衰退にそのままつながった[4]
皇族・官僚

南朝宋や斉の時代には、多くの皇族たちが王朝内の内紛や簒奪の過程で成長するまでに粛清されてきたが、梁は建国者の武帝が長命であったために、侯景の乱までそうした事態は生じなかった。武帝は後継者である昭明太子と事件を起こして処分された経緯がある六男の邵陵王蕭綸を除いてほぼ平等に扱われていた。しかし、こうした扱いは結果的には太子以外の皇子間に対等意識を生み出し、太子の没後の宗室内の不和の一因になった[16]

武帝の治世が長期化したことで、皇族や官僚は私財を蓄え不正を行うようになった。武帝の弟の臨川王蕭宏は貪欲な人物で、武帝の治世で3億に及ぶ不正蓄財を行っていた[17]。また、武帝の治世後半には綱紀が弛緩した上、有能で人望もあった昭明太子が531年に早世して同母弟の蕭綱が擁立されたことも、皇族間の不和を生じさせた[18]

官僚も日夜酒宴や女色に溺れて実務を省みなくなり、風俗が乱れ奢侈が横行し[18]、民衆からは厳しい租税が収奪されるようになった[15]。また、晩年の武帝は若い頃の聡明を失っており、自らは仁政を行っていると思い込んでしまっていた[18]。治安も乱れ、中央では賄賂が横行するのは当たり前で、冤罪で処罰される者も増大し、皇族やそれに連なる者たちの驕慢もあり、白昼で殺人や強盗が起こるのも珍しくなくなり、それを捕縛すべき官吏は金銭の授受次第で見逃すという事態にまで至っていた[15]。このような皇族・官僚の腐敗は結果的に、侯景の乱で救援に現れた諸王が積極的に動かず、ひどい時は自ら収奪に走るという統制がきかない状況にまで陥る結果となる[19]
教育

武帝は貴族の子弟が入る国子学と、五館という学校を置いた[20]。五館とは儒教の経典五経に通じた博士の官が学生の教育に当たる学校であったが、この学校は単なる教育機関ではなく試験を行って官吏を登用する官吏養成所の性格を持っていた[21]。これは後に隋で開始される科挙の源流ともいわれ、武帝は身分の上下に関わらずに才能次第で官吏を登用した(武帝自身は寒門など低身分の人材を特に求めたという)[21]。この武帝の学術奨励は、梁の学問が大いに発展する契機となり、昭明太子をはじめ多くの文化人・知識人を生み出し、『文選』など多くの作品が現れ、日本においても飛鳥時代奈良時代平安時代の日本文学に大いに影響を与える事になった[21]
貴族

梁の貴族は東晋・南朝宋のように強勢ではなく、むしろ資質の低下が顕著になっていた[3]。そのため武帝は貴族の中でも下級の貴族を選抜して側近に登用し、法制や礼制の整備に努めた[22]。また三国魏の時代からの九品官人法を改めて品から班に改め[22]、従来の基準を大幅に改編して皇帝権力を強化するために官僚制への移行を積極的に推進した[20]
宗教

武帝は異常なほど仏教に傾倒し、後世からはこのために梁の亡国を招いたとして非難される一因となっている[23]。まず武帝は在位中に4回も捨身を行う異常ぶりだった。更に中国皇帝は国家儀礼は儒教に基づいて行うのが当然とされていたが、武帝は仏教に基づいて行っており、加えて大赦改元を伴って行うなど常識を逸脱する熱烈ぶりが目立つようになっている[23]。ただし、仏教が武帝や梁の民衆にここまで受け入れられたのは、後漢という長期政権の崩壊後、魏晋南北朝時代という動乱期で儒教の価値観が低下し自己の救済を仏教に求めたため、という側面もあったことを理解しておく必要がある[24]。とはいえ、このような極端な仏教傾倒は梁における仏教隆盛をもたらした一方で、皇帝や皇族の放恣や側近による専権、貴族層の実務忌避や寺院の建立による財政悪化による民衆の窮乏と社会不安の増大という国勢の衰退を助長した[17][1]
梁の歴代皇帝

中国の歴史中国歴史
先史時代(中国語版)
中石器時代(中国語版)
新石器時代
三皇五帝
古国時代)(黄河文明
長江文明
遼河文明


西周

東周春秋時代
戦国時代

前漢


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