寛文4年(1664年)、上杉景勝の孫・綱勝が、子供の無いまま急死して断絶の危機を迎えたが、綱勝の舅保科正之(3代将軍徳川家光の実弟)の尽力により、綱勝の甥で妹婿吉良義央(上野介、扇谷上杉家の女系子孫)の子の綱憲が綱勝に養子入りした結果、半知15万石で家名存続することを許された。その際、梁川城を含む伊達郡・福島城の信夫郡・高畠城のある置賜郡屋代が公収された。 幕府直轄領となった梁川は、その後、天和3年(1683年)尾張藩2代藩主徳川光友の三男の松平義昌が入封し、3万石にて立藩した。分家の理由は尾張藩が血脈の断絶を恐れたためであり、同時期、同様の理由で尾張藩は四谷家(高須藩)、川田久保家を分家させている。梁川の立藩は、有力な外様である伊達家への楔となる親藩を求める幕府の思惑とも一致していた。享保14年(1729年)5月、3代・義真が卒去し、無嗣子のため廃絶となった。 同年9月、尾張藩3代藩主徳川綱誠の十九男の松平通春(後の徳川宗春)に改めて3万石が与えられたものの、翌享保15年(1730年)に世継を残さないまま尾張藩主徳川継友が死亡し、通春が尾張藩を相続したため、一時廃藩となった。宗家断絶を防止するという役目を果たしての廃藩であった。 廃藩後は宝暦5年(1755年)に会津藩(松平家)飛地、宝暦6年(1756年)に磐城平藩飛地、安永7年(1778年)に幕府領、寛政2年(1790年)に再び磐城平藩飛地、享和3年(1803年)再び幕府領となっていた。文化4年(1807年)、蝦夷地召し上げに伴い松前藩主松前章広が9千石(実高1万8600石)にて転封となった。この国替えは、蝦夷交易の運上金により数万石の大名とみなされていた松前家にとって、改易に等しいものだった。転封の理由は資料により様々であるが(密貿易説、藩主の放蕩説)、転封前にロシア船に対して万全の警備をするよう沙汰があったのにもかかわらずそれを怠ったことと、幕府が蝦夷地を直接支配して北方警備を強化する方針をとったこと、後の松前家の蝦夷地復帰理由が「北方に対する備えが整ったため」であったことから、防備の軽視が転封の理由となったという立場もまた有力視されている。 梁川に転封された松前家は、まず財政難に直面した。蝦夷においては商場知行 松前氏が梁川で積極的に治世を行った記録は残されていない。それは藩政の方針が倹約、粗食を常とし、領民と事を構えないことを第一としたためであり、松前家はひたすら幕府や公家に蝦夷地への復帰を働きかけた。その努力が実ったのは移封から15年後の文政4年(1821年)であった。ついに国替えの沙汰が下り、松前家に蝦夷地が返還されたため梁川藩は再び廃藩となった。その後、梁川は再び幕府の管理地となるが、安政2年(1855年)には松前家の飛地領となり、明治4年に福島県に属するまで、館藩、ついで館県の一部とされた。 主な生産物は米であるが、上杉時代の制度を踏襲して半石半永(半分を米、半分を永楽銭)で収めていたため、農民は市場で米を売る必要があった。そのために阿武隈川を利用した商業も発達していた。藩はより財源を増やすために新田開発を奨励し、特に松平家時代に新田開発が盛んであった。 親藩・御連枝 3万石 (1683年 - 1730年) 外様 9千石 (1807年 - 1821年)
尾張徳川家連枝
松前家の移封
経済
歴代藩主
松平〔尾張〕家
義昌(よしまさ)〔従四位下、出雲守・少将〕 尾張藩主徳川光友の子。それまで簗川だった地名を梁川に改めた。
義方(よしかた)〔従四位下、出雲守・少将・侍従〕
義真(よしざね)〔従四位下、式部大輔・侍従〕
通春(みちはる)〔従五位下、主計頭・侍従〕 尾張藩主徳川綱誠の子 後、尾張藩主徳川宗春となる。罪人を雇用保護して梁川東照宮を造営する東照宮建設工事した。
松前家
章広(あきひろ)〔従五位下、志摩守〕
現在、梁川町商業事業協同組合が発行する梁川町共通商品券「やながわ藩札」には、函館市中央図書館蔵の蠣崎波響の梁川八景より「広瀬橋微雪」をあしらっている。蠣崎波響は松前家の同族で、梁川時代の松前藩家老。多くの書画を残している。
脚注^ ただし文書上で明確なのは11代持宗 - 14代稙宗。
^ 現在の福島県伊達郡桑折町、伊達市にあった。伊達氏が本拠地を移すと米沢、会津、岩出山へと一緒に移転され、現在の仙台市の北山五山へとつながる。
^ 佐藤家忠は福島を本貫とする地侍(信夫佐藤氏18代目)。古川重吉は信濃衆(更級郡塩崎城主・小笠原氏の出身)で不仲だったという説もあるが、現在は西根神社に、信達総鎮守として共に祀られている。
参考文献
『藩史総覧』 児玉幸多・北島正元/監修 新人物往来社、1977年
『藩史大事典 第1巻 北海道・東北編』 藤野保・木村礎・村上直/編 雄山閣、1988年 ISBN 4-639-10033-7
歴