梁啓超
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急進化の原因としては、宮崎滔天によって変法派と革命派の合作が図られていた(ただし結果的に失敗)ということ、1900年義和団の乱における清朝首脳の定見のなさを目の当たりにしたこと、唐才常の自立軍運動を巡って康有為との間に確執が生じたこと、などが原因だった。しかし康有為の厳しい叱責を受けた後は、その過激さは影を潜め開明専制君主による政治改革を主張するようになる。すなわち1905年中国同盟会の機関誌『民報』が発刊されると「清朝打倒の武力革命は暴動と外国帝国主義の干渉を招いて国を滅ぼすものであり、いまはむしろ開明専制を行うべきだ」と主張して、革命派と対立した。このような思想変遷の激しさに関しては、彼自身が後年反省しているところでもある。

1903年までは「新民説」に代表される、西欧と日本を鏡とした理念的な近代化の議論が多かった。

1905年からは、革命派の影響を受けて「開明専制論」で国家の指導と統一を重視して議会政治が中国では不可能であることを強調した。

1908年からは、またそれを逆転させて清朝の国会開設を全面的に支持。

1910年ごろには、清朝に失望しはじめて激しい批判を投げかけるようになる。

しかしそこで一貫していた基本理念は、中華民族四大文明の一つを築いた誇らしい民族であるという理念、民族を復興させるには近代的な国民国家の建設が必要だという理念、すなわち帝国主義時代を生き抜くためのナショナリズムであった。
中華民国と政界活動(1912-1920)

14年間の亡命生活を経て1912年辛亥革命の翌年に39歳で帰国した[1]1914年8月の膠州湾周辺での日独戦争後に排日論へ転じ、かつて戊戌変法を裏切った袁世凱のもとで進歩党を組織して、熊希齢内閣の司法総長となる。しかし、袁世凱が唱えた帝政(帝政問題)に反対して天津に逃れ、かつて時務学堂の学生であった蔡鍔とともに討袁軍を組織し、護国軍軍務院の撫軍および政務委員長になって、第三革命をすすめた。

袁世凱死後、黎元洪大総統のもとで国会が回復すると憲法研究会を組織し、いわゆる研究系の指導者として活動。段祺瑞内閣のもとで財務総長となり、西原借款にも関係している。しかしわずか4ヶ月で内閣は崩壊し、1918年から1920年3月まで、ヴェルサイユ全権大使の顧問としてヨーロッパへ視察団を率いる。イギリス、フランス、ドイツの思想界ともしばしば接触を持ったという。
晩年と思想活動(1921-1929)新会区の梁啓超故居北京植物園の梁啓超墓

一次大戦によるヨーロッパの荒廃に少なくない衝撃を受けた梁啓超は、国家主義的なスタンスから近代西欧の思想を紹介するそれまでのスタイルを改め、伝統中国の思想や文化への再評価へと向かい、物質主義的な西洋文明を中国文明の精神と融合させるための学術研究に没頭していくことになる。1923年には清華大学教授、ついで北京図書館の館長となっている。影響力を強めつつあったマルクス主義に対しては、中国には階級的な社会構造が存在せず、共産主義の理念は外来の理論ではなく中国の伝統の中にも求めるべきである、などの理由で批判的であった。ソビエトを赤色帝国主義と断じて排露を主張し、一部の地域が赤色共産党人の運動場となっていると評価して、当時の現状を嘆く評論が残る。

1929年、病没。

現在、広東に梁啓超故居が、天津に梁啓超旧居・記念館が、北京植物園に墓碑がある。
思想・評価

今日では中国語にも多くの
和製漢語が使用されているが、その端緒を開いたのは梁啓超であった。胡適毛沢東をはじめ、感化を受けた清末青年は多く、その意味でジャーナリストとしての梁は大きな足跡を残した。

梁啓超は知識や学問について書いた文章で、フランスヴォルテール日本福澤諭吉ロシアトルストイを「世界三大啓蒙思想家」のトップとして紹介し、三人の生涯や功績を紹介している[4][1]

革命主義的な政治手法を激しく批判し、「開明専制」という国家主義的な思想を展開したこともあって、長らくその評価はあまり芳しいものではなかった。しかし日本における近年の中国近代史研究においては、梁啓超は研究対象として最も扱われる知識人となっている。その理由は、1980年代以降に起こった歴史学における分析視座の変化と大きく関わっている。第一には、マルクス主義を下敷きにした社会経済史から、言葉や概念の意味の構造と変容に着目する言説分析的な方法論への転換であり、これによって西欧近代の政治思想の文献を中国に精力的に紹介した知識人である梁啓超の役割がクローズアップされることになった。第二には研究上の分析対象が革命運動から「国民国家」に転換し、それによって「国民」や「民族」をはじめとした国民国家に関する近代的な概念や理念を中国に導入し、定着させた梁啓超の存在感が高まったためである。特に梁啓超が日本の文献の翻案によってそうした思想活動を行っていたことも、日本の研究者に重視され続けている理由である。

主義主張が同一人物とは思えないほど思想変遷が激しいことも、梁啓超が長らく批判の対象となってきた一因である。彼自身も1920年に書いた『清代学術概論』の中で、「わが学問は博きを愛することに病む。このために、浅薄で乱雑なのである。最も病んでいるのは定見がないことだ。獲得したと思ったら、たちまちのうちに失ってしまう。あらゆるものは私を見習うべきだとしても、この二つは私のようになってはならない」と自省している[5]。しかし、新しい思想を中国に精力的に導入するに当たって、梁啓超のこうしたフットワークの軽さこそが強みであったと言うこともできるだろう。

2004年には島田虔次狭間直樹京都大学の研究者が中心となって『梁啓超年譜長編』全5巻の翻訳を完成させており(#参考文献)、全生涯に関する史料集として、梁啓超研究だけでなく中国近代史研究全般に有用な史料集として用いられている。

著作

著述のほとんどは『飲冰室合集』(1932年)に収められている。また全著作名は『梁啓超著述繋年』(1986年)で確認できる。以下は膨大な著作のうち、主要著作のみ挙げた。

1896年『変法通議』

1898年『戊戌政変記』

1900年「少年中国説」

1901年「立憲法議」

1901年「中国史序論」

1902年『新民説』

1902年「論政府与人民之権限」

1902年『新中国未来記』

1902年『十五小豪傑』(翻訳=
ジュール・ヴェルヌ作、森田思軒訳『十五少年』の重訳)


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