桶狭間の戦い
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戦後、東海地方を制圧していた今川家が没落する一方、織田信長は尾張を完全統一したうえ畿内制圧へと台頭するきっかけとなった。松平元康(徳川家康)は三河で独立を回復して信長と清洲同盟を締結し、これが戦国時代の転機となった。
合戦の経過
合戦以前の情勢

15世紀末、駿河国今川氏親は勢力を拡大し、駿河・遠江に領国を形成する[3]。後継の氏輝の死後に、花倉の乱と呼ばれる領国を二分する内紛が発生するが、その子である今川義元が内紛を鎮めて今川家を継承した[4]

尾張国では守護斯波氏の家臣で清州織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定が土地を占拠して、さらに交易拠点の津島を支配し経済力を高め、次代の織田信秀(信長の父)が支配地を広げた[5]

今川氏は尾張の一部にも勢力を持っていたが、織田信秀は天文7年(1538年)までに、尾張那古野城にいた今川氏豊を追放して城を奪い、今川氏との対立が始まった[6]

両勢力に挟まれた三河国では吉良氏松平氏水野氏戸田氏牧野氏菅沼氏奥平氏などの小勢力が争いを続けていたが、やがて有力国人である松平氏の分家の1つである安祥松平家が岡崎城に拠点を移し、成長していくことになる。

織田弾正忠家と安祥松平家は東尾張と西三河を巡り抗争していた。しかし、松平清康は東尾張侵攻中に家臣に殺害され(森山崩れ)、その子松平広忠も早世して弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていった。このため織田氏と今川氏は東尾張と西三河で対峙することになった。

天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田軍が勝利したとされているが(『信長公記』)、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川軍が勝利した。

しかし、当時の今川氏は甲斐国武田氏相模国北条氏と対峙しており、特に天文6年(1537年)から天文14年(1545年)まで続いた河東の乱では駿河国東部を巡って北条氏と激しく衝突していた。

このため、今川氏の三河進出の本格化は河東の乱終結後とする見解が浮上しており、第一次小豆坂の戦いの実在性やこの時期の安祥松平家(後の徳川氏)の情勢について様々な議論が行われている[注釈 1]

ともあれ、河東の乱の終結後、今川氏は武田氏・北条氏との関係強化に乗り出し、やがて甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ることになった。

翌天文18年(1549年)、今川軍が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略[6]、織田氏の三河進出は挫折に終わった。

そして天文18年(1549年)後半に信秀は病に臥せる。その中、天文19年(1550年)に今川氏は大軍で尾張に侵攻した。織田軍はどうにか国境近辺で持ちこたえたが、今川軍は知多半島に12月まで在陣した(『定光寺文書』)。同地の緒川・刈谷を領する水野家を降伏させてから、引き上げた[10]

さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病死した。その後、織田家の家督を巡って、織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で 内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海城笠寺城(それぞれ名古屋市緑区南区)を守る山口教継が今川軍に投降した。

加えて山口氏調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高[要曖昧さ回避])、沓掛城豊明市沓掛町)の一帯が今川軍の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通とそれによる農地開発以前の知多半島は、ほぼ全域が小さな山や谷が連なる丘陵地で、主要河川が無く溜め池に頼る農業困難地帯であった[11]。知多は農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。

また、尾張西南の荷之上城に拠る服部友貞が今川軍に味方しており、荷之上城に近い蟹江城弘治元年(1555年)に今川軍に攻められ[6]伊勢湾制海権が徐々に今川軍に侵略されつつあった。

織田信長も今川軍の進出阻止や逆襲に動いた。

天文23年(1554年)には、織田信長は知多の領主である水野氏を支援して今川軍の村木砦を攻め落とした。さらに、笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦善照寺砦中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦鷲津砦を築くことで今川軍を圧迫し、城相互の連絡を遮断した。


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