桜田門外の変
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また、幕府寄りとされた関白九条尚忠内覧を解いて朝政から遠ざけた[注釈 5]。水戸藩は密勅の写しを雄藩に廻送する様に添書きで指示を受けていたが、藩内抗争の激化により、廻送することがかなわず、攘夷派公家を通して縁戚の諸大名へは廻されたものの、幕府権威がいまだに強かった当時、各藩は関わりを恐れ相手にしなかった。しかし、朝廷が幕府を介さずに大名へ直接指令するという事態は、江戸幕府開闢以来前代未聞であったため、幕閣は狼狽した。

直弼は、密勅が天皇の意思ではなく水戸藩の陰謀とし、反論者への徹底弾圧を決心した。まず、老中に再任させた間部詮勝を京都に送り、新たに京都所司代に任命した酒井忠義にこれを補佐させた。間部は、着京後、即日密勅首謀者として水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門幸吉父子の京都西町奉行所への出頭を命じて捕縛しつつ、対朝廷では、態度不鮮明のまま「病臥」と称して参内を延期し、長野主膳島田左近と連日協議した。これは、先年、入洛早々に参内して条約勅許の獲得に失敗した老中・堀田正睦の轍を踏まぬため、十分な準備を図って慎重に行動したものである。詮勝は、直弼の指示を受けて、一橋派らと関係を深めていた公卿の家人たちを捕縛断罪、また全国でも民間の志士を手始めに、幕政を批判する政治運動に関わった諸藩の藩士を捕らえていった。いわゆる安政の大獄である。一方で、孝明天皇は、いずれは鎖国に復帰するという条件のもとで、条約調印が切羽詰まった措置であったという直弼の弁明に一通りの理解を内々に示した。朝廷内も「公武一和」のため幕府の行いを認めたことで、幕府に批判的な一派は勢いを挫かれた。しかしこの時、朝廷との折衝に当たった詮勝は再攘夷の準備段階と説明したため、幕閣はこの内容を公表し辛くなった[7]。他方、直弼による粛清対象は日を追うごとに増加し、皇族公家大臣僧侶藩主幕臣浪人学者名主町人等々に及んでいき、最終的に安政の大獄へ関係して罪を得た者、または社会的に失脚、迫害された者は100名以上にのぼった。

水戸では、密勅への対応をめぐって藩論は紛糾した。返納阻止派の藩士らは、密勅の下された安政5年の9月、街道の本陣のある小金宿 [注釈 6]に結集し、武装した農民部隊まで加わった(第一次小金屯集)。この屯集が収まりを見せる頃、直弼による安政の大獄は本格的になり、京都では密勅降下に関わった鵜飼吉左衛門父子らが拘禁された。やがて江戸表でも家老安島帯刀ら水戸藩改革派の重鎮が拘禁され、これに反発した水戸藩士民は、安政6年(1859年5月、再び小金宿等に屯集した(第二次小金屯集)。一方、水戸藩士金子孫二郎は、高橋多一郎と計り関鉄之助、矢野長九郎、住谷寅之介らを西へ向かわせ、密勅の写しを諸藩へ回達させようとした。彼らは西南雄藩との連合を目指し、数か月間に渡り諸藩を遠遊した。また、弘道館内の鹿島神社神官・斎藤監物も神官3名を西国へ向かわせ、諸国神官職の者達へその写しを回覧させた[8]8月27日夜半、水戸藩関係者への刑が執行された。水戸藩家老安嶋帯刀を切腹、水戸藩奥祐筆茅根伊予之介、水戸藩京都留守居役鵜飼吉左衛門を斬首、水戸藩京都留守居役助役鵜飼幸吉を獄門に処する等、御三家の家老格重鎮への処分としては、異例のものであった。また、前水戸藩主・徳川斉昭は国許の水戸に永蟄居処分を受けた。さらに、幕政から『戊午の密勅』の朝廷への返還を求められ、主君の処分解除のためには、水戸藩は幕府へ恭順を示さねばならなくなった。しかし、断固返納反対の立場をとる藩士らの勢いも止まず、藩内の膠着状態となった。幕府は自ら返還を促す勅命の草案を作って天皇の同意を得る方針に転換し、12月、藩主・徳川慶篤に勅書返納の朝旨を伝達した。水戸藩庁では斉昭・慶篤間での協議により返納論が主流となりつつあったが、密勅返納阻止の運動は却って激化した。返納反対派は密かに密勅が運ばれることを警戒し、藩境の長岡[注釈 7]で集まり水戸街道を封鎖して返納に抵抗した(長岡屯集)。安政7年(1860年)1月15日、幕閣は江戸城へ登った慶篤に対し、重ねて密勅の返納を催促、同年1月25日を期限とし、もし遅延したら違勅の罪として同藩を改易する可能性まで述べた[9]。慶篤は返納に肯定的であったが、水戸藩内の返納反対論者の勢いは強く、幕府に猶予を願い出続けた。水戸で永蟄居中の斉昭は事態を危惧し、密勅を水戸城内の祖廟の元へ納めさせ、またさらに水戸より六里(約23.56キロメートル)北で、歴代藩主の墓のある瑞龍山の廟へ移した。2月14日、返納容認論者の藩士・久木直次郎が江戸で、夜半何者かに襲撃された。また2月18日、水戸城下の魂消橋で、返納反対派の藩士と容認派の藩屏が衝突、負傷者を出し、水戸城下は騒ぎとなった。2月24日、藩士・斎藤留次郎が水戸城・大広間で割腹自殺したため、返納は延期された[注釈 8][10]。長岡屯集は、水戸藩上層部からの工作により懐柔されたことと、活動の主要人物の一部が直弼暗殺計画のため江戸へ移って地下に潜行したことにより解散した。

一方、以前より尊攘激派の藩士・高橋多一郎金子孫二郎らと、薩摩藩の在府組である有村次左衛門らは、双方の藩に仕えた日下部伊三治 (大獄により獄死)を介して結合を維持していた。この水戸藩士に薩摩藩士を加えた攘夷激派は、江戸での井伊大老への襲撃と同時期に、薩摩藩主・島津斉彬が率兵上京により天皇の勅書を得、それにより幕政を是正しようと図った[11]。しかし、薩摩藩では斉彬及び斉興の死後に実権を握った島津久光が、江戸での大老襲撃を黙認しつつも、自藩の直接関与を抑制する方策をとった。久光の息子である藩主・島津茂久が、直書で志士の「精忠」を賞賛するとともに、後日を期して脱藩突出を思いとどまるように説諭するという異例の対応で、攘夷激派を沈静化させた。ここに率兵上京の計画は頓挫した。しかし、薩摩藩から尊攘急進派の水戸藩士らへこの事は知らされなかった[要出典][注釈 9]


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