桜島
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桜島-薩摩テフラ

約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラで、火砕物の総体積は11 km3(6.6 DRE km3)に及び、2.6万年前?現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。火山爆発指数(VEI)は6。他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2 km3を越えるイベントはないので、桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。この噴火によって、桜島の周囲10 km以内ではベースサージが到達したほか、現在の鹿児島市付近で2 m以上の火山灰が堆積しており、薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている[30]
有史以降の噴火新期南岳の活動における溶岩流。なお図中の灰色は950年ごろの太平溶岩、紫色は1200年ごろの中岳噴出時のもの[31]

30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明安永大正の3回が大きな噴火であった。『薩藩地理拾遺集』においては708年(和銅元年)、『薩藩名勝考』においては716年霊亀2年)、『神代皇帝記』においては717年(養老元年)、『麑藩名勝考』や『三国名勝図会』においては718年(養老2年)に桜島が湧出したとの説が紹介されている。現実的にはこの年代に桜島が形成されたとは考えられず、これらの説は桜島付近で起きた噴火活動を指すものとされる。

764年(天平宝字8年)から766年に海底からの噴火があり、『続日本紀』の天平宝字8年12月の箇所に「麑嶋」(鹿児島)における噴火の記述が残る[32]

原文
是月。西方有声。似雷非雷。時当大隅・薩摩両国之堺。煙雲晦冥。奔電去来。七日之後乃天晴。於麑嶋信爾村之海。沙石自聚。化成三嶋。炎気露見。有如冶鋳之為。形勢相連望似四阿之屋。為嶋被埋者。民家六十二区。口八十余人。

現代語訳
この月、西方で音があった。雷に似ているが雷ではない。この時、大隅国薩摩国の境が煙と雲で暗闇となり、雷電が迸った。7日後にようやく雲が去って天が晴れてみると「麑嶋信爾村」の海で砂礫が自然と集まり3つの島になっていた。炎や気が立ち上るありさまは、鍛冶の技のようである。連なる形はあずまやの屋根に似ている。島のために民家62戸が埋まり、80余人が犠牲となった
? 『続日本紀』巻第二十五

記述によれば、鹿児島湾海上において大音響や火焔とともに3つの島が生成したとされている[14]。島の詳細な位置は明確になっていないが桜島に関連した火山活動の一つと考えられており、「麑嶋」(鹿児島)が桜島を指しているとする説と、広く薩摩国大隅国の境界地域を指しているとする説がある[33]。地質学的な調査により小林(1982)は、最初の活動で鍋山が出現し次いで長崎鼻溶岩が流出したとしている[34]。931年ごろ(承平年間)に書かれた『和名類聚抄』において、大隅国囎唹郡に「志摩」(島)という地名が登場する。これが具体的な地域としての桜島を指した最古の文献である[35]

766年から1468年までの約700年間は歴史記録に記述が残されていないため噴火が無かったと考えられていたが[34]、その後の調査により、950年ごろに大平溶岩を形成する山頂火口からの噴火[36] や、1200年ごろの活動で中岳が形成されたとする研究がある[14]
文明大噴火

1468年応仁2年)に噴火したが被害の記録はない。その3年後、1471年(文明3年)9月12日に大噴火(VEI5)が起こり、北岳の北東山腹から溶岩(北側の文明溶岩)が流出し、死者多数の記録がある。2年後の1473年にも噴火があり、続いて1475年(文明7年)8月15日には桜島南西部で噴火が起こり溶岩(南側の文明溶岩)が流出した。さらに翌1476年(文明8年)9月12日には桜島南西部で再び噴火が起こり、死者多数を出し、沖小島と烏島が形成された[14]

1509年6月2日(永正6年5月15日)、福昌寺の僧天祐が南岳山頂に鎮火を祈願する真鍮を立てた。この鉾は後に風雨により折損したため、1744年11月27日(延享元年10月24日)にの鉾として再建されている。戦国時代において桜島は島津氏の領地となっており、鹿児島湾を挟んで対峙していた肝付氏との争いの最前線として各所に城塞が築かれ兵が配置されていた。1571年12月6日(元亀2年11月20日)には肝付氏、禰寝氏伊東氏の連合軍が100艘余りの船で桜島の各所を攻撃した。これに対して島津家久横山、脇、瀬戸などに陣を構えて応戦している[15]
安永大噴火詳細は「安永大噴火」を参照歌川広重『六十余州名所図会 大隅 さくらしま』1853年

1779年11月7日(安永8年9月29日)の夕方から地震が頻発し、翌11月8日(10月1日)の朝から、井戸水が沸き立ったり海面が紫に変色したりするなどの異変が観察された。正午ごろには南岳山頂付近で白煙が目撃されている。昼過ぎに桜島南部から大噴火が始まり、その直後に桜島北東部からも噴火が始まった。夕方には南側火口付近から火砕流が流れ下った。夕方から翌朝にかけて大量の軽石や火山灰を噴出し、江戸長崎でも降灰があった。

11月9日(10月2日)には北岳の北東部山腹および南岳の南側山腹から溶岩の流出が始まり、翌11月10日(10月3日)には海岸に達した(安永溶岩)。翌年1780年8月6日(安永9年7月6日)には桜島北東海上で海底噴火が発生、続いて1781年4月11日(安永10年3月18日)にもほぼ同じ場所で海底噴火およびそれに伴う津波が発生し被害が報告されている。一連の海底火山活動によって桜島北東海上に燃島、硫黄島、猪ノ子島など6つの火山島が形成され安永諸島と名付けられた。島々のうちいくつかは間もなく水没したり、隣接する島と結合したりして、『薩藩名勝志』には八番島までが記されているという[37]。死者は150人を超えたが、最も大きい燃島(現・新島)には1800年(寛政12年)から人が住むようになった。

噴火後に鹿児島湾北部沿岸の海水面が1.5–1.8 m上昇したという記録があり、噴火に伴う地盤の沈降が起きたと考えられている。一連の火山活動による噴出物量は溶岩が約1.7立方km、軽石が約0.4立方kmにのぼった。VEIは4。薩摩藩の報告によると死者153名、農業被害は石高換算で合計2万3千石以上になった[33][38]

幕末においては瀬戸に造船所が設置され、日本で最初の蒸気船「雲行丸」(江戸で建造との説あり)が建造された。1863年(文久3年)の薩英戦争では、袴腰(横山)と燃崎に砲台が築かれた[39]
大正大噴火詳細は「桜島の大正大噴火」を参照桜島の埋没鳥居。黒神集落のこの鳥居は、1914年噴火で上部をわずかに残し噴石や火山灰に埋もれてしまった(約2m)

1914年大正3年)1月12日に噴火が始まり[40]、その後約1か月間にわたって頻繁に爆発が繰り返され多量の溶岩が流出した。一連の噴火によって死者58名を出した。流出した溶岩の体積は約1.5 km3、溶岩に覆われた面積は約9.2 km2、溶岩流は桜島の西側および南東側の海上に伸び、それまで海峡(距離最大400m、最深部100m)で隔てられていた桜島と大隅半島とが陸続きになった。

また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、軽石等を含む降下物の体積は約0.6 km3、溶岩を含めた噴出物総量は約2 km3(約32億トン、東京ドーム約1,600個分)に達した。噴火によって桜島の地盤が最大約1.5 m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認された。この現象は桜島北側の海上を中心とした同心円状に広がっており、この中心部の直下、深さ約10 kmの地中にマグマが蓄積されていたことを示している[41]

定量的な観測に基づく噴火前後の地震調査原簿などの資料は東京の中央気象台に集められていたが、1923年関東大震災で焼失して残っていない。噴火活動の経過などは各地の気象台測候所に残っていた資料を元に行われたため、精度に欠ける部分があるとされている[42]
噴火の前兆

1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて中伊集院村(現・日置市)を震源として発生した弱い地震が最初の前兆現象であった。


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