桜島
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小池桜島小池町387西大正大噴火による溶岩流出により、集落全体が埋没した[19]
赤生原桜島赤生原町415北西 
桜島武町501北西周辺には火山性土石流(ラハール)によって形成された火山扇状地が広がる[20]
藤野桜島藤野町403北大正噴火で溶岩流出により埋没した横山から村役場が移転して以降、西桜島村及び桜島町の行政の中心地となる[21]。現在も鹿児島市役所桜島支所が所在している。
西道桜島西道町183北 
松浦桜島松浦町161北 
二俣桜島二俣町150北 
白浜桜島白浜町446北白浜温泉がある[21]
高免高免町158北東安永溶岩が海に伸びてできたスズエ鼻と呼ばれるがある[22]
黒神黒神町123東埋没鳥居で知られる腹五社神社や、昭和溶岩に埋め尽くされてできた地獄河原と呼ばれる溶岩原がある[23]
瀬戸東かつて桜島と大隅半島とを隔てていた瀬戸海峡に面していた集落。大正溶岩により、島津斉彬時代の薩摩藩造船所跡もろとも埋没した。1950年の鹿児島市編入時に黒神町の一部となる。
有村町14南東かつて有村の東側に隣接していた集落。大正噴火による溶岩流出により埋没した[24]1950年の鹿児島市編入時に有村町の一部となる。
有村南大正噴火までは東桜島村の中心地であった。
古里古里町110南海辺の露天風呂で知られる古里温泉がある。
東桜島東桜島町423南かつては湯之と呼ばれており、東桜島村が鹿児島市に編入された際に改称された[25]。東桜島合同庁舎(旧・鹿児島市役所東桜島支所)所在地
持木持木町106南かつて乙野尻や2番野尻と呼ばれていた。1950年の鹿児島市編入時に野尻から分離。
野尻野尻町131南文明溶岩が海に伸びてできた燃崎と呼ばれる岬がある。

植生

桜島は頻繁に噴火を繰り返してきたため、同程度の標高を有する周辺の山地とは植生が異なっている。山頂付近には植物がなく、標高600メートル (m) 付近からススキなどのが生え始める。標高が下がるに従ってヤシャブシノリウツギなどの低木が見られるようになり、クロマツ広葉樹の林へと続いている。山麓付近はクロマツ、タブノキアラカシシイの林となっており、北部から北西部にかけてはスギヒノキ人工林も存在する。大正大噴火以前は山頂火口付近までヤシャブシの林があり、中腹まで広葉樹の天然林が広がっていたが[26]、大正大噴火以降は火山ガスによって桜島東側を中心に森林が枯死して表土が失われ、深さ50mを越す谷が無数に刻まれ、山体の崩壊が進行している。島の東西に2つある大正噴火の火口のうち東側の火口は噴火の後に高さ10mほどのクロマツの森林となったが、昭和期に入ってからの噴火活動によってクロマツが枯死して植生が再び失われている。桜島の溶岩原は形成時において植物やその種子が全く存在しない状態になったため、年月を経て植生が変化する遷移(一次遷移)の様相を呈している。噴出年代の異なる溶岩原にそれぞれ特徴的な植物群が分布しており、植生遷移の経過を一度に観察することができる貴重な場所である[27][28]

昭和溶岩の植生は地衣類センタイ類で始まり、噴火後30年を経てイタドリやススキ、タマシダ、クロマツが生え始め、噴火後45年を経るとハゼノキやノリウツギも見られるようになった。

大正溶岩の上にはクロマツが生い茂り、ハゼノキ、ノリウツギに加えてヤシャブシも見られる。

安永溶岩の上はクロマツ林からアラカシ、タブノキなどの常緑広葉樹林へ遷移しつつありシャシャンボシャリンバイも見られる。

文明溶岩の上はシイやカシツバキ、タブノキなどを含む照葉樹林となっているが、人工林になっている場所も多い。

火山活動史衛星から見た桜島(写真左上部)

桜島西部の横山にある城山(横山城跡)は古い時代に形成された台地であり、少なくとも約11万年前には陸地として存在していたと考えられているが、残りの大部分は姶良火砕噴火以後の後カルデラ火山活動によって形成された。

約3万年前[29]、現在の姶良カルデラを形成した大隅降下軽石と入戸火砕流姶良Tn火山灰の噴出した破局噴火(姶良火砕噴火)によって現在の鹿児島湾の形が出来上がった(右衛星写真の鹿児島湾奥部、桜島より上の部分に相当)。桜島はこのカルデラ噴火の後に火山活動を開始した後カルデラ火山である。約2.6万年前、姶良カルデラの南縁で火山活動が開始し、安山岩デイサイト質の溶岩を流出しながら成層火山を形成していった。この活動は2千年ほど続いたのち停止した(古期北岳火山)。1万年ほどの休止期間を置いて、約1.3万年前の桜島-薩摩テフラを噴出した噴火を皮切りに新規北岳火山が活動を開始した。以降プリニー式噴火を繰り返し、山体が更に成長していった。約4500年前から噴出源が南岳とその側火山(中岳や昭和火口)に移行し、ブルカノ式噴火による火山砂の堆積、溶岩流の形成の他、間欠的にプリニー式噴火が発生している。[30]
桜島-薩摩テフラ

約1.3万年前に発生した噴火によって噴出したテフラで、火砕物の総体積は11 km3(6.6 DRE km3)に及び、2.6万年前?現在までにおける桜島火山最大の活動であったとされている。火山爆発指数(VEI)は6。他の桜島火山起源のテフラで火砕物噴出量が2 km3を越えるイベントはないので、桜島-薩摩テフラは他のテフラとくらべ桁違いに大きい。この噴火によって、桜島の周囲10 km以内ではベースサージが到達したほか、現在の鹿児島市付近で2 m以上の火山灰が堆積しており、薩摩硫黄島などでも火山灰が確認されている[30]
有史以降の噴火新期南岳の活動における溶岩流。なお図中の灰色は950年ごろの太平溶岩、紫色は1200年ごろの中岳噴出時のもの[31]

30回以上の噴火が記録に残されており、特に文明安永大正の3回が大きな噴火であった。『薩藩地理拾遺集』においては708年(和銅元年)、『薩藩名勝考』においては716年霊亀2年)、『神代皇帝記』においては717年(養老元年)、『麑藩名勝考』や『三国名勝図会』においては718年(養老2年)に桜島が湧出したとの説が紹介されている。現実的にはこの年代に桜島が形成されたとは考えられず、これらの説は桜島付近で起きた噴火活動を指すものとされる。

764年(天平宝字8年)から766年に海底からの噴火があり、『続日本紀』の天平宝字8年12月の箇所に「麑嶋」(鹿児島)における噴火の記述が残る[32]

原文
是月。西方有声。似雷非雷。時当大隅・薩摩両国之堺。煙雲晦冥。奔電去来。七日之後乃天晴。於麑嶋信爾村之海。沙石自聚。化成三嶋。炎気露見。有如冶鋳之為。形勢相連望似四阿之屋。為嶋被埋者。民家六十二区。口八十余人。

現代語訳
この月、西方で音があった。雷に似ているが雷ではない。この時、大隅国薩摩国の境が煙と雲で暗闇となり、雷電が迸った。7日後にようやく雲が去って天が晴れてみると「麑嶋信爾村」の海で砂礫が自然と集まり3つの島になっていた。炎や気が立ち上るありさまは、鍛冶の技のようである。連なる形はあずまやの屋根に似ている。島のために民家62戸が埋まり、80余人が犠牲となった
? 『続日本紀』巻第二十五

記述によれば、鹿児島湾海上において大音響や火焔とともに3つの島が生成したとされている[14]。島の詳細な位置は明確になっていないが桜島に関連した火山活動の一つと考えられており、「麑嶋」(鹿児島)が桜島を指しているとする説と、広く薩摩国大隅国の境界地域を指しているとする説がある[33]


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