桜井センリ
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1960年(昭和35年)に植木の紹介で[2]ジャズバンド「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」に参加。結核のため療養中だった石橋エータローの穴を埋めるべく、約1年間、石橋の代役を務める。石橋復帰後は植木などから「脱退させるべき」との意見が出たが、「せっかく仲間になったんだから」とリーダーであるハナ肇が他のメンバーを説得し正式加入。石橋が脱退する1971年まで、クレイジー・キャッツは、ピアニストが2人という変則的な形をとり、「連弾」というスタイルを生かしたコントも行うようになる(その後も石橋はクレイジーに度々客演しており、連弾は定番となる)。演奏スタイルは石橋は大胆、桜井は繊細と言われる。

バラエティ番組『シャボン玉ホリデー』では、大柄な犬塚弘と組んだアクションが有名。

作曲家としての活動歴があり、スリーファンキーズのシングル盤「ナカナカ見つからない」、弘田三枝子のシングル盤「明日をみつめて」(2曲とも作詞は青島幸男)の作曲を本名の桜井千里名義で担当している。

また俳優としても活躍し、『なつかしい風来坊』(松竹)や『クレージー黄金作戦』(東宝)など多くの映画テレビ番組などに出演している。また、山田洋次の作品に度々重用され、『男はつらいよ』にも様々な役柄で登場した。舞台でもバイ・プレーヤーとして活躍する。

キンチョールCMに出演した「センリ婆さん」のキャラクターも有名。このCMで桜井が言った「ルーチョンキ」という言葉は当時の流行語となった[2]

生前の桜井はクラシック音楽やオペラにも造詣が深く、専門誌にしばしば原稿を執筆していた。また、演奏の感覚を忘れぬためにピアノに一時間向かうのを日課としていたという。

2006年(平成18年)、映画待合室』にIGRいわて銀河鉄道線小繋駅の委託駅員役として出演。

2007年(平成19年)4月27日、植木等の「お別れの会」では谷、犬塚と共に葬儀委員長を務めた。2010年(平成22年)11月11日に行われた谷啓の「お別れの会」が、最後の公の場となった[4]

2012年(平成24年)11月11日、東京都新宿区の自宅で遺体で発見された。12日現在、病気による『孤独死』として報道される[1][5]。86歳だった。1967年に元・宝塚歌劇団員だった女性と結婚しているが、のちに離婚している。その後は母親と2人暮らしだったが、1984年に母親を亡くしてからは独り暮らしの状態だった。持病など直接の死因は不明だが、1996年には狭心症を発症し入院。出演予定だった舞台を降板している。自宅で発見される直近では、電動車いすを使用して買物に出かける姿が目撃されていたと言う[6]。墓所は多磨霊園(18区1種55側29番)。

桜井の没後、2023年10月までの約11年は、犬塚がクレージーキャッツ唯一の存命メンバーとなっていた。
主な出演
映画

※ 太字は役名
東宝クレージー映画

ニッポン無責任時代(1962年) - 青木

ニッポン無責任野郎(1962年) - 大原

クレージー作戦 先手必勝(1963年) - 佐倉千里

日本一の色男 (1963年) - アパートの管理人

クレージー作戦 くたばれ!無責任(1963年) - 桜田

香港クレージー作戦(1963年) - 桜橋

日本一のホラ吹き男(1964年) - 社長の運転手

無責任遊侠伝(1964年) - 佐倉

花のお江戸の無責任(1964年) - 出ッ尻清兵衛

日本一のゴマすり男(1965年) - 営業課長

大冒険(1965年) - 加倉井編集長

無責任清水港(1966年) - 紋太

日本一のゴリガン男(1966年) - 友永

クレージーだよ奇想天外(1966年) - ホントの鈴木太郎

クレージー大作戦(1966年) - ジョージ馬場

クレージーだよ天下無敵(1967年) - 曽呂利アナウンサー

クレージー黄金作戦(1967年) - 中林

クレージーの怪盗ジバコ(1967年) - 老婆

クレージーメキシコ大作戦(1968年) - 日系人ケン

日本一の裏切り男(1968年) - ジョージ

クレージーのぶちゃむくれ大発見(1969年) - 八重桜の留吉

クレージーの大爆発(1969年) - 土井


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