桓武天皇
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注釈^ 天皇は後年、「緒嗣の父(百川)微(な)かりせば、予豈(あ)に帝位を践むを得んや」との詔を発している[4]
^ 当時の皇子女の諱は乳母名(うじな)が採用される慣例であったため、「山部」という諱も山部氏の女性が乳母であったためと思われ、その場合の乳母は山部子虫であったと推定される[7]
^ 山田邦和によれば、桓武天皇は生前に埋葬を希望したのは宇多野ではなく深草山であり[9]、平城京にならって都の北側に陵墓を築こうとしたのは皇太子(後の平城天皇)の意向であったとする。ところが、宇多野は賀茂神社を祀る賀茂県主氏などの在地勢力の勢力圏に近いために彼らの反発を招き、それが宇多野への埋葬断念につながったとされている[10]
^ 黒板伸夫森田悌編 訳注日本史料『日本後紀』(集英社、2003年)、pp. 1198: 補注「柏原山陵」の解釈。
^ 西本昌弘によれば、『扶桑略記』に大同元年11月頃の話として、平城天皇が神野親王(嵯峨天皇)の皇太弟廃位を画策し、これを知った親王が父が眠る柏原山陵を遙拝したところ、平安京中を烟気が覆って昼なお暗い状態になった。驚いた天皇が占いを命じたところ、柏原山陵の祟りという結果が出たために、これを恐れた天皇が企てを断念したという逸話が載せられている。西本は『扶桑略記』が記すよりも少し前の時期に実際に廃太子の計画が存在しており、廃太子計画の失敗とそれに伴う父帝の祟りの可能性を危惧した天皇が改葬によって祟りを鎮めようとしたとしている[11]
^ 主要全国紙で本文において「ゆかり発言」を取り上げたのは『朝日新聞』のみであり、『毎日』『読売』『産経』の主要諸紙は「おことば」を全文掲載したものの、この「ゆかり発言」は掲載せずに愛子内親王の話題を取り上げるのに留まった。

出典^ 村尾 1987, p. 46.
^ 村尾 1987, p. 1.
^ 村尾 1987, p. 248.
^続日本後紀承和10年7月庚戌(23日)条
^ 西本昌弘「長岡京前期の政治的動向」『平安前期の政変と皇位継承』吉川弘文館、2022年 ISBN 978-4642046671 P75-104.(初出:『条里制・古代都市研究』36号、2021年)
^ 吉川真司「馬からみた長岡京時代」(初出:国立歴史民俗博物館 編『桓武と激動の長岡京時代』山川出版社、2009年/所収:吉川『律令体制史研究』岩波書店、2022年 ISBN 978-4-00-025584-4)2022年、P102-103.
^ 佐伯『新撰姓氏録の研究』
^ 外池昇『事典陵墓参考地 もうひとつの天皇陵』(吉川弘文館、2005年)pp. 49-52。
^ 『日本紀略』延暦11年8月4日条
^ 山田邦和 著「 ⇒平安時代前期の陵墓選地」、古代學協會 編『仁明朝史の研究 承和転換期とその周辺』角田文衞監修、思文閣出版、2011年2月。ISBN 978-4-7842-1547-8。 ⇒http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784215478。 
^ 西本昌弘「桓武改葬と神野親王廃太子計画」『平安前期の政変と皇位継承』(吉川弘文館、2022年), pp. 145-156:初出:『続日本紀研究』359号(2005年)
^ 山田邦和『歴史検証天皇陵』新人物往来社〈別冊歴史読本 78〉、2001年7月、134頁。ISBN 4-404-02778-8。 
^ a b 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)正月壬子【十五】(#延暦八年(七八九)十二月附載)》壬午。葬於大枝山陵。皇太后姓和氏。諱新笠。贈正一位乙継之女也。母贈正一位大枝朝臣真妹。后先出自百済武寧王之子純陀太子。皇后容徳淑茂。夙著声誉。天宗高紹天皇竜潜之日。娉而納焉。生今上。早良親王。能登内親王。宝亀年中。改姓為高野朝臣。今上即位。尊為皇太夫人。九年追上尊号。曰皇太后。其百済遠祖都慕王者。河伯之女感日精而所生。皇太后即其後也。因以奉諡焉。」  ⇒P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
^ 『続日本紀』巻第四十「《延暦九年(七九〇)二月甲午【廿七】》○甲午…(中略)…是日。詔曰。百済王等者朕之外戚也。今所以擢一両人。加授爵位也。」  ⇒P4473《巻首》続日本紀巻第四十〈起延暦八年正月、尽十年十二月。〉」
^ 山下剛司「百済王氏存続の要因」(『佛教大学総合研究所紀要』 21号、2014年)35-54
^ 宮内庁. “天皇陛下のお誕生日に際しての記者会見の内容”. 2008年11月7日閲覧。
^ 朴正薫 (2001年12月23日). “ ⇒日王、朝鮮半島との血縁関係を初めて言及”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
^ 金基哲 (2001年12月24日). “ ⇒「日王は百済の末裔」韓国人学者の主張”. 朝鮮日報. 2008年11月7日閲覧。
^ 『毎日新聞』2002年1月15日
^ 金剛学園出演「歌垣」が結ぶ韓日中 平城遷都祭「花いちもんめ」一緒に (民団新聞) ⇒[1]

参考文献

井上満郎『桓武天皇 当年の費えといえども後世の頼り』ミネルヴァ書房ミネルヴァ日本評伝選〉、2006年8月。ISBN 4-623-04693-1。 

緒形隆司『暁の平安京 桓武天皇史話』光風社出版、1994年1月。ISBN 4-87519-611-3。 

佐伯有清『新撰姓氏録の研究 研究編』吉川弘文館、1963年4月。ISBN 4-642-02110-8。 

林睦朗『桓武朝論』雄山閣出版〈古代史選書 7〉、1994年4月。ISBN 4-639-01222-5。 

村尾次郎『桓武天皇』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書 新装版 112〉、1987年7月。ISBN 4-642-05085-X。 

関連項目

勘解由使

御霊信仰

慈眼堂 (大津市) - 桓武天皇御骨塔在所

令外官

最澄 - 桓武天皇の内供奉十禅師

陰陽師 (映画) - 桓武天皇の治世

桓武海山

八須夫人 - 第19代百済王久尓辛王生母倭人であることが有力

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