桓公_(斉)
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管子』小称によれば、桓公が「嬰児を蒸したものはまだ味わったことがない」と言ったところ、料理人の易牙は嬰児であった自分の長子を蒸して公の膳にすすめたという[2]。このようなことが契機となり「三貴」の一人と言われるほど重用されるようになった。
歴史的評価

桓公は、春秋五覇の最初の覇者であり、春秋五覇の候補は他にもいるが晋の文公と並んで「斉桓晋文」と称された。

桓公が家臣から諮問された時に「管夷吾(夷吾は管仲の名)に聞け」とばかり答えるので、家臣から「君主とは楽なものですね。全て管夷吾に任せておればいいのですから」と言われると、桓公は「管夷吾を得るまでは苦労したのだ。管夷吾を得てからは楽をしても良いではないか」と答えたと言う。

自分の命を狙った管仲を最高権力の座につけ、その後も最期まで排斥せずに信任し続けた。

しかし管仲を失ってからは信任すべきでない人物を用い、無惨な最期を迎えたと
韓非子は批判している。

また韓非子は桓公について、人を見る目もなければ、そもそも君主として臣下を統御する方法も知らなかった、管仲が君主と見まがう言動を行い、三貴に破滅させられ死体にウジが沸いたのはその証であると痛烈に批判している。ただし、東郭牙に諫められて管仲への全権委任を思いとどまったという逸話もある。

朝鮮では、葵丘(現在の河南省商丘市民権県)において、桓公がすでに弱体化していながらも天子の国である周王忠義を誓ったという史実は、主君(周王)への忠義を厳守する尊王の原点として扱われ、忠義の象徴となる[3]。桓公が攘夷として西伐、南伐、北伐を実施した史実は、李氏朝鮮において、女真夷狄)が建国したを攻めての再興を目指す思想である「北伐論(朝鮮語版)」の言語形態的拠り所となった[3]。このように、朝鮮において、の興隆を認めず、徹底してを尊崇した、その論理的拠り所が桓公の史実である[3]

妻子
妻妾

正室:王姫、徐姫、蔡姫(
の公女。離婚した)

側室:長衛姫 - 公子無詭の母、の公女

少衛姫 - 公子元(恵公)の母、衛の公女

鄭姫 - 公子昭(孝公)の母、の公女

葛? - 公子潘(昭公)の母

密姫 - 公子商人(懿公)の母

宋華子 - 公子雍の母



公子無詭(無虧、武孟)

孝公(昭)

昭公(潘)

懿公(商人)

恵公(元)

公子雍

脚注^左伝』僖公十七年十月乙亥条による。
^ 世界大百科事典『易牙』 - コトバンク
^ a b c 太田誠『政治家宋時烈の研究』東北大学、2014年3月26日、19頁。 










姜斉の第16代(前685年 - 前643年)


呂尚(太公望)前1021?-前1000

丁公前999-?

乙公

癸公

哀公?-前863

胡公前862-前860

献公前859-前851

武公前850-前825

前824-前816

文公前815-前804

成公前803-前795

荘公贖前794-前731

釐公前730-前698

襄公前697-前686

公孫無知前685

桓公前685-前643

斉侯無詭前643

孝公前642-前633

昭公前632-前613

斉君舎前613

懿公前612-前609

恵公前608-前599

頃公前599-前582

霊公前581-前554

荘公光前553-前548

景公前547-前490

晏孺子荼前489

悼公前488-前485

簡公前484-前481

平公前480-前456

宣公前455-前405

康公前404-前379

Category:斉の君主


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