桑原茂一
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1975年、「ローリング・ストーン日本版」がスタッフの不祥事により廃刊の憂き目に会うが、同時期、「BIGI」のファッションショーの為の選曲、および「エドウイン」から店舗BGMの製作を依頼され、この時採用された「ウルフマン・ジャック・ショー」のパロディスタイルのアイデアが後の「スネークマンショー」の原点となっていく[1](「スネークマン」時の活動については同項を参照)。また1977年より、以後20年以上に渡って担当することになる「コム・デ・ギャルソン」のファッションショー選曲を開始する。

1982年3月、原宿に「ピテカントロプス・エレクトス」開店、代表に就任。同店では、盟友中西俊夫率いるMELON、東京ブラボー、ショコラータミュート・ビート坂本龍一高橋悠治などのライブ、高木完藤原ヒロシによるDJプレイが披露され、また、ジョン・ライドンクラウス・ノミキース・ヘリングジャン・ミッシェル・バスキアナム・ジュン・パイクデヴィッド・バーンをはじめ海外からも数々のミュージシャン・アーティストが訪れるなど、その存在は以後の日本のストリート・カウンターカルチャーに多大な影響を与えることになる[2][3][4]。同年、ゲストミュージシャンとして高橋幸宏細野晴臣土屋昌巳パーシー・ジョーンズを迎え製作されたMELONの最初のアルバム「Do You Like Japan?」[1]をプロデュース。

1984年宮沢章夫竹中直人中村有志いとうせいこう大竹まこときたろう斉木しげる松本小雪と演劇ユニット「ドラマンス」を旗揚げし、メンバーとしてプロダクション人力舎に所属する。

1986年、日本音楽選曲家協会(略称:音選協)を設立、発起人代表を務める。1987年、クラブキング設立[5]1988年フリーペーパー「dictionary」 ⇒[2]を創刊[6]。90年代以降も、「RADIO HEAVEN」、「ブルー・フィルム」などの活動のほか、TBSにて放送された「大帝国劇場」のスーパーバイズ、その他、CD製作、イベントオーガナイズ、podcasting、ファッションショーの選曲・音楽監督、ラジオ・テレビ番組制作、映画音楽など、さまざまな手段で独自のコントや音楽・文化を発信し続けている。また、2001年のアメリカ同時多発テロ事件を機に発行された坂本龍一とML「suspeace」が監修する「非戦」に参加[7]、同じく坂本の呼びかけによる「Stop Rokkasho」[8]、およびmore treesプロジェクト[9]に参加するなど、社会問題や環境問題などへの発言も積極的に行っている。

2010年1月5日「桑原茂一のPIRATE RADIO」 ⇒[3]InterFM)放送開始。また2010年7月、東京都水道局出張所跡地(東京都渋谷区神南1[10])を利用し、"学ぶを遊ぶ - 働く大人が学ぶための「学校」= ART SCHOOL"のコンセプトのもと、さまざまな人材の交流と情報発信を目指して「ディクショナリー倶楽部 ART SCHOOL」 ⇒[4]を開校[11]。校長として茂木健一郎、またリリーフランキー萱野稔人ヒロ杉山しりあがり寿近田春夫野崎良太高橋健太郎など、各界著名人を講師陣として迎える。
脚注・出典[脚注の使い方]^ “ ⇒「これ、なんですか?スネークマンショー」桑原茂一2 監修 新潮社刊”. 2010年8月1日閲覧。
^ “ ⇒東京大学「80年代地下文化論」講義 宮沢章夫著 白夜書房刊 2006”. 2010年8月15日閲覧。
^ “ ⇒THE POLICE Column Tokyo 80s Real Story 桑原茂一 インタビュー”. 2010年7月30日閲覧。
^ “ ⇒sby/hrjk 20世紀渋谷・原宿若者文化年表”. 2010年8月28日閲覧。
^ 寺山修司の住処であったマンションの一室(劇団天井桟敷の事務所があった)に、長らく事務所が構えられていた。
^ “ ⇒I-mage2#特別講義 桑原茂一氏”. 2010年7月30日閲覧。
^ “ ⇒久米繊維工業株式会社 At Work + T vol.3 桑原茂一 インタビュー”. 2010年7月30日閲覧。


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