桑原武夫
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第二次世界大戦を挟んでそれを報告書にまとめようと、水野清一長広敏雄たちが企画するものの難航していた。同じ研究所にいた桑原はこの『雲石石窟調査報告書』刊行について、吉田茂と面談予定のフランス人の知己に状況を説明、間接的に同意を引き出し、同書は1951年の発刊に至る[9]。吉田は長広が6月に届けた同書を直後のサンフランシスコ講和条約会議に携えたとされる[注釈 2]。当該資料のまとまった公刊が達成されるのは2017年である[11]。別途、1975年に限定部数で出した図面[9]も複製してこれに収載された。

時代背景もあり、『百科全書』派研究などが同時代のフランスで高い評価を受けたわけではない[要出典]。また国内でも和洋漢に及んで「浅く広い」桑原の仕事をディレッタント[注釈 3]視する学者もあった。有名な「第二芸術論」も、アイヴァー・リチャーズの『実践批評』を下敷きにしたものであることが外山滋比古によって指摘されている[12]。このことを指したのか明示されていないが、小松左京は「ある人が『あなたのやったことはみな思いつきに過ぎない』と批判したところ桑原さんは『思いつきかも知れないが、おまえ思いつき言うてみい』と切り返した」と回想している[13]

岩波書店中央公論社等の出版社との連携も強く、戦後の出版ブームでは『文学入門』[14]『日本の名著』[15]など今日に残る新書のベストセラーを数多く出版した。生前に朝日新聞社と岩波書店からそれぞれ全集が発刊されている。

『明治維新と近代化』(1984年)で講座派を時代錯誤として批判したこと、また梅原猛らと国際日本文化研究センター創立メンバーとなったことなどを、歴史学者中村政則から批判された[16]
京都大学学士山岳会

同期である今西錦司らとともに登山家としても知られ、1958年には京都大学学士山岳会の隊長として、パキスタン領のチョゴリザ山への登頂を成功に導いた[17]。登山に関する著作も多い。

所属する京都大学学士山岳会 (AACK) から1957年に連絡を受け、国交樹立前のブータン王国から個人旅行で第3代ブータン国王妃ケサン・チョデン・ワンチュク(英語版)とその家族が来日すると知り、京都で出迎えたのは桑原と芦田譲治である[18]。実際に京都大学ブータン学術調査隊総裁として松尾稔隊長とともに隊を率いて同国に渡るのは1969年であり[19]中尾佐助による1958年の植物調査から10年後のことであった[20]。近代化前の同国で外国人が行った初の全国学術調査であり、調査地は中国国境タシガンを含む。映像記録はフィルムで200本超に農作業や人々の暮らし、自然の景観を収めている[21]。後輩たちは1983年から1985 年にブータン・ヒマラヤ[22]を踏査しマサコン峰登頂に成功する[23]。やがて京都学士山岳会から「京都大学ブータン友好プログラム」が2010年に立ち上がり2014年までに教職員150人超を現地に派遣[24][25]。60周年記念事業[26]に着手した京都大学は2016年4月に「京都大学ヒマラヤ研究ユニット」[注釈 4]を発足する。今西と桑原が開いたヒマラヤ学の道は現在も研究者を現地探査にフィールドワークにと送り出している[27][28]

桑原は1981年(昭和56年)に京都市社会教育センター[注釈 5]初代所長に就任し没するまで務め、1984年(昭和59年)には世界平和アピール七人委員会の委員に選任される[30][注釈 6]
受賞歴・叙勲歴

1940年(昭和15年)紺綬褒章

1951年(昭和21年)毎日出版文化賞

1966年(昭和41年)フランス共和国国家勲功騎士章

1974年(昭和49年)勲二等瑞宝章

1975年(昭和50年)朝日文化賞

1977年(昭和52年)1月 講書始「フランス学における共同研究」

1977年(昭和52年)日本芸術院会員

1979年(昭和54年)文化功労者顕彰


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