桃山文化
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^ 信長が比叡山延暦寺を焼き討ちしてもなお罪の意識うすかったことや、秀吉が信仰目的というよりは自らの権勢の誇示のために方広寺大仏(盧舎那仏)を建造し、しかも大仏が地震で倒壊した際には仏がいかに無力であることか嘲笑したなどのエピソードにも、この時代の世俗的・脱宗教的ないし反宗教的な時代精神がうかがわれる。芳賀(1979)p.122
^ 堺の町人のなかには「債権と俗世の名望を棄てねばならぬなら、天国へなどは行きたくない」と豪語する者があり、博多の町人には「後生願ひ無用に候」と遺言する者があった。さらに「今こそ弥勒の世なりけれ」と現世を強く肯定する民衆もあった。芳賀(1979)p.122
^ ドイツ文学者の西尾幹二は、17世紀から19世紀にかけてヨーロッパ諸国でギリシャローマ古典古代文献学が一斉に開花し、そこで得られた方法論を用いて各国民国家の民族文化史が検証されていったのと同様の現象が同時期の日本においても起こったことを指摘している。西尾によれば、伊藤仁斎荻生徂徠らによる漢学における古代言語文化の再生の営みののち契沖賀茂真淵本居宣長らによって国学が大成されていったのであり、これはヨーロッパにおける人文科学の思潮の展開とほぼ軌を一にしている。西尾(1999)pp.14-17
^ 『細川両家記』の永正17年正月の伊丹但馬守と野間豊前守が伊丹城で自害する場面の記述に「我等二人は此の城の中にて腹切らんと、四方の城戸をさし、家々へ火をかけ、天守にて腹切りぬ」という文がある。 ⇒神戸大学大学院人文学研究科地域連携センター《細川両家記を読む(永正16年?17年)》
^ 中世の城は防塞的性格の濃い山城が多かったが、この時代の城は領国支配の利便をも考慮して平山城や平城が多くなり、その役割も、軍事施設としての機能のみならず城主の居館・政庁としての機能を兼備するものに変化した。
^ 石垣施工を専門におこなった技術者集団として近江国坂本穴太衆が有名である。穴太衆のなかには、土佐藩の北川豊後のように家臣として召し抱えられる者もあった。伊藤(1969)p.119
^ 天守の外からみる層数と内部の階数が一致しないことがあり、とくに望楼型天守では大きな入母屋屋根の内部に隠れた階のあることが多い。一般には、層は外観の屋根の重なり、階とは内部の床の重なりを指す。五味・野呂(2006)pp.12
^ 安土城は、地階の石蔵に仏教建築の宝塔を置き、一階から三階までは御殿で腰は羽目板とし、教会建築を模した南蛮風の吹き抜けを設け、二階空間に張り出し舞台、三階に渡り橋を設けて、宝塔や舞台を見下ろす構造となっていたという説もある。五階は正八角形平面で内側は金、外側が朱で彩色がほどこされ、六階は金閣のような唐様仏堂形式で内外ともに金色に塗られていたと推定される。藤田・古賀編(1999)p.107
^ 左官にたずさわってきた壁塗工は従来は賤民的な扱いを受けてきたが、左官工事量の増加にともなって地位を上昇させ、その境遇から脱することができた。伊藤(1969)p.119
^ 秀吉は、京都から大坂に都を遷す構想があったとみられ、それによれば、天満御所や公家屋敷を移し、平野町の両側に五山をはじめとする京都の寺院を移す計画だったと考えられている。藤田・古賀編(1999)pp.106-107
^ 十二天守のなかの「丸亀城天守」は、当初「御三階櫓」として建設されたものである。
^ 秀吉の利休の信任ぶりは、大友宗麟によれば「内々の儀は宗易(利休)、公儀のことは宰相(豊臣秀長)存じ候」と評されるほどであった。池上(2002)p.285
^ 芳賀幸四郎は、この時代の文化について、物質的な巨大性・豪奢性を志向しながらも、その一方で、それとは反対の方向性すなわち「侘び茶」にみられるような精神的な収斂性・簡素性を志向する側面があり、こうした「対立的統一」も桃山文化ならではの特質であると指摘している。芳賀(1979)p.122
^ 利休の死については、いのちを賭けた武将・武士の戦功が側近文化人の政治的発言で左右される不合理に憤りの声が高まったことに対する豊臣政権の粛清工作の一環として生じた犠牲という意味をもつとの指摘がある。永島(1969)p.149。また、それまでのキリシタン・商人ネットワークに依存する体制を脱却し、近臣や吏僚直臣による支配体制を強化する立場からは、利休の求道的態度や教養・能力の高さ、また、当時の豪商たちが共通にもっていた自主自尊の精神はむしろ桎梏となった、いわば「商と士の相剋」から悲劇が生じたという見解もある。池上(2002)pp.286-287
^ 「利休」の名は、天正13年(1585年)の禁中茶会に参内するために千宗易が正親町天皇より与えられた居士号であった。また、禁中茶会を秀吉に勧めたのは利休であったといわれる。永島(1969)p.148
^ 徳川氏からあたえられた織田長益の江戸屋敷跡がのちに有楽町とよばれるようになった。
^ 他の茶器・茶道具には、茶碗、茶杓茶筅、水指、建水があり、香炉香合・花入なども茶の湯の場では多く用いられた。田中(2009)pp.122
^ 待庵は、山崎の戦いののち、秀吉が利休に命じてつくらせたといわれ、利休が造作にかかわったことが確実視されている。『わびと黄金』(1969)p.6
^ 秀吉は信長の葬儀を終えた天正10年11月に山崎で利休(宗易)・宗及・宗久および山上宗二とともに茶会をひらいている。林屋(1974)pp.352-353。また、賤ヶ岳の戦いの前に、前田利家寄親であった柴田勝家の使者として山崎の地を訪れているが、秀吉・利家の会合にも待庵が使用された可能性がある。熱田(1992)p.256
^ 才色兼備をうたわれた吉野太夫の夫が太夫を偲んで建てたといわれる。
^ 細川藤賢の屋敷にあった藤戸石は、信長入京後、信長が足利義昭の居城として二条城を造営する際、二条城に運び込まれた。その後、秀吉が聚楽第に運び、さらに醍醐の花見に際して醍醐寺に持ち込まれたものである。
^ 古来、彩色することを「彩(た)む」といい、「彩む絵」の音韻変化したものが「濃絵」である。絵の具には、紺青緑青群青臙脂胡粉黄土があって必ずしも青系統に限らない。また、特殊な材料として金銀泥、金銀箔、墨、雲母などがあった。五味・野呂(2006)p.14
^ これらの霊獣は、武田氏の「丸に龍」、北条氏の「虎」、上杉氏の「獅子」といった信長の好敵手であった各氏の印章を意識したものでもあり、そこに「天下」を意識した統一的な精神をみてとることができる。林屋(1969)p.110
^ 建仁寺の友松作品は、現在その多くが掛軸になおされて保存されている。
^ 祥雲禅寺は、秀吉が夭折した長子棄丸の冥福を祈り、建立された寺であった。武田(1969)p.129
^ 永徳の急死により祥雲禅寺(現智積院)の襖絵は等伯一派にまかされることとなった。辻(1969)p.174
^ 「洛中洛外図」を制作時期に着目して分類すると、第1期から第4期まで分けられる。第1期は町田本・上杉本などで応仁の乱後約50年の京都の復興ぶりが描かれ、第2期は聚楽第が京都の象徴として登場、第3期は慶長初年ころの様相を示し、二条城と方広寺大仏が描かれる。第4期は江戸初期の情景を示し、二条城とともに祇園会のようすが描かれる。なお寛永以降は風俗画としての生命を失い、単に京都名所図となっていく。五味・野呂(2006)p.15
^ 中央2扇は修理のさなか1923年(大正12年)の関東大震災により焼失した。
^ そのため、秀吉の朝鮮出兵を別名「焼きもの戦争」と称することがある。
^ たとえば、慶長8年(1603年)の『日葡辞書』の「ツジガハナ」の項には「赤やその他の色の木の葉模様や紋様で彩色してある帷子。また、その模様、または絵そのもの」とあり、ある種の文様染めの施された帷子、ないしその文様が本来的な意味での「辻ヶ花」であった。
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