桃太郎
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これを検証した小池は、「果生型」の草双紙が流布した時代になれば、この像を見て桃から桃太郎が生まれた図案と解釈しえた、とそれなりの類似を認めつつも、像の制作時からこれが桃太郎だったと立証するにも何一つ由来・伝説・資料等がない」と懐疑的な立場に徹した[21]

小池の見立てでは、この顔は幼児というより老人っぽく[注 7]、髪をみずらに結っていた。神宮では、これを主神の伊奢沙別命(イザサワケノミコト)による大陸遠征の物語とする説があるが、何ら古文書に無く、日中戦争の1940年頃に喧伝されていたものなので時局に便乗した産物でないかと疑われるが、小池は最終的にその疑いを払拭して、この説を支持する結論に達している[21]

この像を桃太郎と見て特に疑わない意見もあり、美術史家の源豐秋(源豊宗)の論文(1923年)は安土桃山時代の桃太郎彫刻と鑑定し[20]中村直勝(1935年)も源豊宗の結論を引いており[29]、のち俳人の志田義秀の『桃太郎概説』(1941年)も、本殿再建の慶長19年の彫刻と時代を遅らせているが桃太郎であることに異議を唱えていない[30]
鬼から奪った財宝

江戸期の文学では、桃太郎が持ち帰る財宝は、隠れ蓑、隠れ笠、打ち出の小槌、金銀、延命袋(第一系統、第二系統)などである。第三系統の『桃太郎一代記』(北尾政美画 天明元年/1781年)などで金銀宝玉やさんごが加わってくる[31]。20世紀に入ると、その宝が「金銀珊瑚綾錦」であることが常套句のようになってもちいられているが[32]、昭和期の童話の出版物でも、これらの他にあいかわらず隠れ蓑や打ち出の小槌も加わっていた[33]
標準型

1887年(明治20年)に国定教科書(『尋常小学読本』巻1)に採用される際にほぼ現在の「標準型」のあらすじの桃太郎物語が掲載された[34][35]。だが1904年の第1期『尋常小学読本』の際には桃太郎はいったん教材からはずされた。1910年の第2期『尋常小学読本』にて復活したが、このころ童話作家の巖谷小波文部省嘱託となっていて桃太郎の執筆に大きくかかわっている(事実上の執筆者である)と考えられている[注 8][36]。小波は、1894年(明治27年)に『日本昔話』としてまとめられており、これもその後の語り伝えに大きく影響した。

桃太郎の姿が、日の丸の鉢巻に陣羽織、幟を立てた姿になり、犬や鳥、猿が「家来」になったのはこの明治時代からである。それまでは戦装束などしておらず、動物達も道連れであって、上下関係などはない。明治の国家体制に伴い、周辺国を従えた勇ましい大日本帝国の象徴にされたのである[37]太平洋戦争の終焉まで、桃太郎は多くの国語の教科書をはじめ、唱歌や図画の教材などに日本国内で広く利用された[7]

その後も語り、絵共に様々な版が生まれ、また他の創作物にも非常に数多く翻案されたり取り込まれたりした。落語の『桃太郎』などもその一例である。
唱歌「桃太郎 (童謡)」を参照

唱歌「桃太郎」は、文部省唱歌の1つ。1911年(明治44年)の『尋常小学唱歌』に登場[38]。作詞者不明、作曲・岡野貞一

桃太郎
桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。

やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。

行きましょう、行きましょう、貴方について何処までも、家来になって行きましょう。

そりや進め、そりや進め、一度に攻めて攻めやぶり、つぶしてしまへ、鬼が島。

おもしろい、おもしろい、のこらず鬼を攻めふせて、分捕物をえんやらや。

万万歳、万万歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。

現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。これと似たような経緯で後半部を削除された童謡に、てるてる坊主がある。両者ともに歌詞の意外性、残酷性が取り上げられることがある[39][40]

また、上記に比べ知名度は劣るが、作詞・田辺友三郎、作曲・納所弁次郎による「モモタロウ」もある。1900年(明治33年)の『幼年唱歌』に登場[38]

モモタロウ
桃から生れた桃太郎、氣はやさしくて力持、鬼ケ島をばうたんとて、勇んで家を出かけたり。

日本一の黍團子、情けにつきくる犬と猿、雉ももらうてお供する、急げ者どもおくるなよ。

激しいいくさに大勝利、鬼ケ島をば攻め伏せて、取つた寶は何々ぞ、金銀、珊瑚、綾錦。

車に積んだ寶もの、犬が牽き出すえんやらや、猿があと押すえんやらや、雉がつな引くえんやらや。


地域別の口承伝説

岡山県を中心とした地域には、横着な性格と大力を持った隣の寝太郎型の桃太郎も多い。鬼退治にしても鬼を海中に投げ宝物をとって帰ったり、鬼に酒を飲ませて退治したりする例もある
[8]

香川県高松市鬼無町では桃太郎が女の子だった、とする話がある。おばあさんが川から持ち帰った桃を食べ、若返ったおじいさんとおばあさんに子どもができ、男の子のように元気のいい女の子が生まれる。そして、あまりに可愛いので鬼にさらわれないよう桃太郎と名づけ育てた、というもの[41]。成立の経緯は、讃岐国司だった菅原道真が「稚武彦命が三人の勇士を従えて海賊退治をおこなった」という話を地元の漁師から聞き、それをもとにおとぎ話としてまとめたものであるという[42]

岩手県紫波郡には母親の腰近くに転がってきた桃を拾って帰り、綿に包み寝床に置いておいたら桃が割れ子供が生まれた桃の子太郎という伝承や、越後佐渡(現・新潟県)の「桃太郎」では桃の代わりに香箱が流れてきたとあり、この香箱は陰部の隠語でもあるという[43]

岩手県の別の語りでは、桃太郎は父母が花見に行った時に拾った桃から誕生。地獄の鬼から日本一の黍団子を持って来いと命じられ、地獄へ行き鬼が団子を食べているすきに地獄のお姫様を救う。婚姻譚を伴う桃太郎である[14]

福島県の桃太郎も山向こうの娘を嫁にする話。きび団子の代わりに粟・稗の団子の設定の高知県の話。またお供も猿・犬・雉ではなく石臼・針・馬の糞・百足・蜂・蟹などの広島県・愛媛県の例もある。地方には多様なバリエーションがある[14]

東京北多摩(現・東京都多摩地域北部)地方には蟹・臼・蜂・糞・卵・水桶等を家来にする話があり、これは明らかに猿蟹合戦の変型とする見方もある[44]

山梨県大月市には「岩殿山九鬼山という説もある)に住む鬼が里山の住民を苦しめていた」「百蔵山には桃の木が生い茂り、そこから川に落ちた桃をおばあさんが拾い持ち帰った」「上野原市の犬目で犬、鳥沢でキジ、猿橋でサルを拾った」等のいわゆる「大月桃太郎伝説」が存在する[45]

南西諸島沖永良部島(鹿児島県大島郡)では「桃太郎」は「ニラの島」へ行ったという。龍宮であるニラの島で島民はみな鬼に食われていたが、唯一の生存者の老人の家に羽釜があり、そのふたの裏に鬼の島への道しるべが書かれており、その道しるべどおり地下の鬼の島へ行き、鬼退治に行く筋書きである[46]

沖縄県宮古島の古謡「仲宗根豊見親八重山入の時のあやご」では、1500年オヤケアカハチの乱に参戦した豪族の一人に桃多良(むむたらー)の名があり、この時期までの沖縄への桃太郎伝承の伝播の可能性が論議されている。

その他

語り部によって、桃が川に流れている描写を「どんぶらこっこ すっこっこ」、「どんぶらこ どんぶらこ」などと表現する。

「桃太郎」は日本統治時代の台湾に伝わり、台湾には「桃太郎村」
[47]というアミューズメント施設が存在した。

屏東県の客家地域では、桃太郎一行が山に入り、虎退治(虎狩り)をして、虎の皮や肉を持ち帰ったと伝えられているが、山賊退治して財宝を持ち帰ったバージョンもある。新竹県タイヤル族には、桃太郎一行が鬼城へ鬼退治に行ったバージョンがある[48][49]

ゆかりの地桃太郎の像(岡山県岡山市吉備サービスエリア岡山県岡山市 吉備津彦神社の桃太郎像


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