桃中軒雲右衛門
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初代桃中軒 雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん、1873年明治6年)5月5日 - 1916年大正5年)11月7日)は、明治時代から大正時代にかけての代表的浪曲師。亭号は沼津駅の駅弁屋である桃中軒に、名は修行時代に兄弟分であった力士の「天津風雲右衛門」に由来するとされる[1]。浪曲界の大看板で「浪聖」と謳われた。
略歴

本名は山本幸蔵(岡本峰吉と称したこともある)。群馬県高崎市新田町出身。父は地方回りの祭文語りをしていた吉川繁吉で、その二男として生まれる。母・ツルは三味線弾きであった。また兄は仙太郎といい幸蔵とともに母に三味線を習った、弟の峰吉は後に兄に感化され桃中軒風右衛門を名乗った。

三味線を習い、吉川小繁を名乗り、ヒラキでの口演や流しなどをしていた。父の没後、その名である2代目吉川繁吉を襲名し、寄席への進出も果たす。その後、横浜で初代三河家梅車の興行についていた三味線弾き(曲師)の夫人お浜に同情して恋仲となり、そのまま駆け落ちしたため関東に戻れず(この時に捨てた弟子に後の木村重松)、京都を経て九州へと至り修行を積む。その過程で従来の関東節に加えて、関西節や、九州で当たりを取っていた美当一調の「糸入り講談」(三味線を伴奏に入れた軍談。浪花節の前駆形態と考えられている)を取り入れ、後の雲右衛門節を生み出していった。略称として「雲」一文字、または「雲入道」がある。雲右衛門独特の重厚なフシ調を「雲調」や「雲節」と呼ぶ。

1903年(明治36年)、桃中軒牛右衛門の名で雲右衛門に弟子入りしていた宮崎滔天や、福本日南、政治結社玄洋社の後援で「義士伝」を完成させる。武士道鼓吹を旗印に掲げ、1907年(明治40年)には大阪中座東京本郷座で大入りをとった。雲右衛門の息の詰まった豪快な語り口は、それまで寄席芸であった浪曲の劇場への進出を可能にし、浪曲そのものも社会の各階級へ急速に浸透していくことになる。

当時大人気であったが、要求する吹込料が非常に高額であったため、なかなかレコードが出されなかった[2][3]。そんな中、1911年(明治44年)9月には神戸の時枝商店が「桃中軒雲右衛門節」と銘打った本人によるものではない(「奏演者匿名」と明記)レコードを発売している[4]。ようやく1912年(明治45年)5月19日、雲右衛門のレコードがライロフォン(三光堂)から発売され、これが雲右衛門のレコードデビューとなる。5種の両面レコードが計7万2000枚プレスされた[2][5]桃中軒雲右衛門の墓(東京都品川区・天妙国寺)。

しかし1913年(大正2年)ごろから、肺結核になり、宮崎の説得で何度か入院をしたが元気になるとすぐに巡業に出てしまい、最後に実子の西岡稲太郎が自宅に引き取って看病するが甲斐なく、1916年(大正5年)11月7日に死亡した。大きな足跡を残し、金遣いも非常に荒かったが、晩年は寂しいものであったという。墓所は東京都品川区天妙国寺。戒名は「桃中軒義道日正居士」[6]
評価・批判など

また雲右衛門のレコード吹込みに関するトラブル(参照:著作隣接権#著作隣接権の起源[7]は、明治大正期における著名な著作権訴訟であった。教科書にも必ず掲載されている判例として有名である[2]。「浪花節(浪曲)の桃中軒雲右衛門」桃中軒雲右衛門(1873 - 1916)は、武士道を鼓吹し赤穂義士伝を得意とした。雄渾荘重な迫力ある節調によって人気を博し、浪花節の社会的地位の向上に貢献した。雲右衛門の肖像画と幟が描かれていて、幟には「桃中軒雲右衛門入道」と記され、赤穂義士の着物の模様も見える。「桃中軒雲右衛門といふ浪花節の名人大坂より上京し本郷座に於て30日間興行せしに其席上等を壱円としたるにかゝわらず毎夜客留の盛覧を提し益々浪花節の聲價を高めたるは雲右衛門其者の藝術の妙に依る所と?も爾来浪花節を以て東京名物の一を示るに至りしは流石雲右衛門の力なりき」と記載あり。 ? 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「浪花節(浪曲)の桃中軒雲右衛門」より抜粋[8]

一方、排外右翼でロシア正教会徒を「売国奴」と呼んだ事などで知られる[9]宮武外骨は、桃中軒雲右衛門を否定的な意味で「穢多芸人」[10]と呼ぶなどの差別発言を行っていた[11]
弟子・血族

死後、「桃中軒雲右衛門」の名を門下の4人(白雲、雲州、雲大丞、野口洋々)がそれぞれ名乗り、混乱が起きた。


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