根津神社
根津神社の遷座時、境内西側の傾斜面(つつじが岡)の中腹に洞を穿つ形で祀られた。
駒込稲荷神社 - 祭神:伊弉諾命、伊弉冊命、倉稲魂命、級長津彦命、級長戸辺命
寛文元年(1661年)鎮座。旧甲府藩邸時代の守り神として祀られたもので、本殿の遷座に伴って末社となった。浜離宮内の稲荷神社の分祀元。
乙女稲荷神社
駒込稲荷神社
その他
徳川家宣胞衣塚 - 当社遷座前、甲府藩邸時代に甲府徳川家嫡子・綱豊(のちに甲府藩主を経て6代将軍家宣となる)の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた時のもの。
塞大神碑 - 本郷追分(東大農学部前の中山道・日光御成街道分岐路)に祀られていた道祖神が立っている。
家宣の産湯井戸(非公開)
庚申塔 - 六基。近隣の町の辻にあったものが道路拡幅などで撤去されたのを引き取ったもの。
つつじ園 - 旧藩邸時代に家宣が植えたのが最初。現在も栽培されており、開花期(春-初夏)には一般開放されている。
森?外旧邸 - 2021年(令和3年)に閉店した旅館「水月ホテル?外荘」(台東区池之端)にあった建物で、閉店後に移築を引き受けることになり、根津神社の総代会の全会一致で移築が決定した[3]。この建物は?外が最初の妻の赤松登志子と1889年5月から住んでいた邸宅で、1890年11月の離婚の直前の文京区への転居まで居住していた[3]。1946年(昭和21年)に旅館の創業者が隣接する旧邸を買い取った[3]。旅館「水月ホテル?外荘」での解体工事は2022年10月3日から始まり、根津神社境内東側への移設が検討されている[3]。
正徳4年(1714年)六代将軍徳川家宣公奉納の神輿(2010年4月24日撮影)
徳川家宣胞衣塚(区指定文化財)
塞大神碑
祭事つつじまつりの様子大祓
1月
初詣(1月1日)
2月
節分(2月3日)
4月-5月
つつじまつり
6月
大祓
9月
例大祭神賑行事(9月17日-18日)
例祭式(9月21日)
10月
根津・千駄木下町まつり(10月20日頃)
11月
七五三詣
新嘗祭(11月23日)
12月
大祓(12月31日)
文化財透塀(西門北方西門
重要文化財
建造物
根津神社 7棟
本殿・幣殿・拝殿(1棟)
唐門[7]
西門[8]
透塀(3棟)(唐門東方[9]、唐門西門間[10]、西門北方[11])
楼門[12]
(附指定)銅灯籠2基
工芸品
太刀 銘長光
太刀 銘備州長船秀光 康暦二年二月 日
文京区指定文化財
神楽面 16面(彫刻) - 平成6年指定
神輿 3基(附 獅子2頭)(工芸) - 昭和55年指定
正徳4年(1714年)、遷宮記念の大祭(天下祭、宝永祭)において奉納されたもの。神輿の巡行に際して、獅子が行列を先導した。
徳川氏朱印状 8通(古文書) - 昭和49年指定
徳川家宣胞衣塚(有形民俗) - 昭和49年指定
氏子地域文京区根津文京区千駄木一?二丁目全域、三丁目37?51文京区本駒込一丁目2?4・9?25、二丁目1?9・13?17(このうち旧駒込曙町の部分)、三丁目1?9(このうち旧駒込浅嘉町の部分)文京区向丘文京区弥生文京区本郷五丁目30?32(このうち旧本郷森川町の部分)、六丁目全域文京区西片二丁目23?25台東区池之端一丁目2?6・二丁目全域
現地情報
所在地
東京都文京区根津一丁目28番9号
交通アクセス
東京メトロ千代田線 根津駅・千駄木駅(各駅とも徒歩5分)
東京メトロ南北線 東大前駅(徒歩5分)
都営三田線 白山駅(徒歩10分)
周辺
日本医科大学
団子坂上 - 現在の文京区立本郷図書館や東洋大学のある辺りが当社の旧鎮座地で、「元根津」とも呼ばれる。
登場作品
森?外『青年』
小泉純一は芝日蔭町の宿屋を出て、東京方眼図を片手に人にうるさく問うて、新橋停留場から上野行の電車に乗った。目まぐろしい須田町の乗換も無事に済んだ。さて本郷三丁目で電車を降りて、追分(おいわけ)から高等学校に附いて右に曲がって、根津権現の表坂上にある袖浦館という下宿屋の前に到着したのは、十月二十何日かの午前八時であった。
森?外『細木香以』[13]
団子坂上から南して根津権現の裏門に出る岨道に似た小径がある。これを藪下の道と云う。
高村光雲『幕末維新懐古談』
従来神田明神とか、根津権現とかいったものは、神田神社、根津神社というようになり、三社権現も浅草神社と改称して、神仏何方(どっち)かに方附けなければならないことになったのである。
岡本綺堂『半七捕物帳(柳原堤の女)』
かれは強情にかんがえた末に、同町内の和泉という建具屋の若い職人を誘い出すことにした。職人は茂八といって、ことしの夏は根津神社の境内まで素人相撲をとりに行った男である。かれは喜平の相談をうけて、一も二もなく承知した。
夏目漱石『道草』
その人は根津権現の裏門の坂を上って、彼と反対に北へ向いて歩いて来たものと見えて、健三が行手を何気なく眺めた時、十間位先から既に彼の視線に入ったのである。そうして思わず彼の眼をわきへ外させたのである。こうした無事の日が五日続いた後、六日目の朝になって帽子を被らない男は突然また根津権現の坂の蔭から現われて健三を脅やかした。それがこの前とほぼ同じ場所で、時間も殆どこの前と違わなかった。
尾崎放哉『入庵雑記』
句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。
岡本綺堂『深見夫人の死』 - 下記引用以外にも多数の記述あり
その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩(おお)うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。わたしはその賑わいを後ろにして池(いけ)の端(はた)から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂(どうざか)行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。
寺田寅彦『柿の種』
根津権現の境内のある 旗亭 で大学生が数人会していた。 夜がふけて、あたりが静かになったころに、どこかでふくろうの鳴くのが聞こえた。 「ふくろうが鳴くね」 と一人が言った。
佐々木味津三『旗本退屈男(第三話)後の旗本退屈男』
しかも、その六本の白刄を、笑止千万にも必死に擬していたものは、ほんの小半時前、根津権現裏のあの浪宅から、いずれともなく逐電した筈の市毛甚之丞以下おろかしき浪人共でしたから、門を堅く閉じ締めていた理由も、うしろに十数本の槍先を擬しているものの待ち伏せていた理由も、彼等六人の急を知らせたためからであったかと知った退屈男は、急にカンラカンラ打ち笑い出すと、門の外に佇んだままでいる京弥に大きく呼びかけました。
宮本百合子『田端の汽車そのほか』
森鴎外が住んでいた家は、団子坂をのぼってすぐのところにあった。坂をのぼり切ると一本はそのまま真直に肴町へ、右は林町へ折れ、左の一本は細くくねって昔太田ケ原と呼ばれた崖沿いに根津権現に出る。
林不忘『丹下左膳(乾雲坤竜の巻)』
江戸は根津権現の裏、俗に曙の里といわれるところに、神変夢想流の町道場を開いている小野塚鉄斎(おのづかてっさい)、いま奥の書院に端坐して、抜き放った一刀の刀身にあかず見入っている。
三遊亭圓朝(鈴木行三校訂・編纂)『敵討札所の霊験』
ちょうど根津権現へ参詣して、惣門内を抜けて参りましたが、只今でも全盛でございますが、昔から彼の廓は度々たびたび潰れましては又再願をして又立ったと申しますが、其の頃贅沢な女郎がございまして
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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