丁目小学校中学校高等学校
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歴史栄広小路にあった日清戦争戦没記念碑(覚王山日泰寺に移築)。
江戸時代初期、清洲越しにより尾張藩の名古屋城城下町が整備された際、栄地区は城下の南東端にあたる地域であった。城下から飯田街道への出口にあたる。
徳川家康が名古屋城を築城した後、万治の大火に見舞われたが、碁盤割地域の南端に位置していた堀切筋を拡幅し、それを「広小路」と呼んだという。やがて広い道筋に人が集まり、寺が開かれ、売店や見世物小屋も軒を連ねるようになるようになった[WEB 15]。
明治に入り、栄地区に県庁・学校などの官公施設や銀行・料亭などの商業施設が作られるようになった。また、広小路通沿いに路面電車が開通すると、町として大きく開け、次第に繁華街を形成するようになった。1902年には広小路通が千種方面に延伸整備されると、名古屋東部の郊外地域への交通の便も向上した。1910年、いとう呉服店(松坂屋の前身)が移転開業し、1915年には百貨店十一屋(丸栄の前身)が開業した。
第二次世界大戦末期には、2年に満たない期間だけではあるが、現在の中区の北半分に栄区が設置されたことがある[WEB 16]。戦後、復興計画として久屋大通や錦通の大通りを整備し、その後、そこに公園・地下鉄・地下街といった公共施設を整備することにより、栄地区は名古屋の商業の中心地として大きく発展してきた。
近年は栄公園の整備などが行われたが、名駅地区の発展が目覚しく、栄地区は名古屋の中心地としての地位はいまだ揺るがないものの、今後の活性化策が模索されている。 地区内の旧町名のうち、比較的知名度の高い栄町からとって「栄」とした[3]。栄町の由来は、明暦年間(1655?1658年)頃から栄村(さこむら、のちの中村区栄生町)の住民が店を出して商売をするようになったことによるという[4]。
町名の由来
沿革
栄町
1878年(明治11年)12月28日 - 広小路片町の改称により、名古屋区栄町が成立[1]。
1889年(明治22年)10月1日 - 名古屋市成立により、同市栄町となる[1]。
1908年(明治41年)4月1日 - 中区成立により、同区栄町となる[1]。
1944年(昭和19年)2月11日 - 栄区成立により、同区栄町となる[1]。
1945年(昭和20年)11月3日 - 栄区廃止により、中区栄町となる[1]。
1966年(昭和41年)3月30日 - 一部が中区栄二丁目・栄三丁目[1]および錦二丁目[5]にそれぞれ編入される。
1969年(昭和44年)10月21日 - 一部が栄三丁目に編入される[1]。
1976年(昭和51年)1月18日 - 残部が栄三丁目・錦三丁目にそれぞれ編入され消滅[1]。
栄一丁目?栄五丁目
1966年(昭和41年)3月30日 - 住居表示実施に伴い、以下の通り中区栄一?三丁目が成立[1]。
一丁目 - 中区横三ツ蔵町・木挽町・竪三ツ蔵町・天王崎町・常盤町・中ノ町・西洲崎町・東角町・東洲崎町・広小路通・南園町・南伏見町・役割町の各一部