栄養学(えいようがく、英語: nutrition science)とは、食事や食品、その成分である栄養素がどのように生物の中で利用されたり影響しているかを研究する、栄養に関する学問である。 1910年代、日本における栄養学の黎明期には、食品に含まれる栄養成分の分析や「何を、いつ、どのくらい」食べたら良いのか研究されていた。次第に白米の栄養素が乏しいということが判明し、玄米か、これを部分的に精米した分搗き米や胚芽米かといった激しい主食論争が交わされた。1980年頃から食事と生活習慣病は大きく関係することが分かり、食生活指針が作成され疫学研究が盛んになった。また1980年代以降、食品成分の健康に対する作用が解明されることが増え、健康食品が広く認識されていった。 炭水化物・たんぱく質・脂質が三大栄養素と呼ばれる。これにビタミン・ミネラルを加えると五大栄養素である。炭水化物が減少し、脂質が増えるという比率の変化は、食の西洋化(欧米化)と呼ばれ、健康への影響が調査されてきた[1][2](厳密には脂肪の種類が重要[3])。これにより、1980年代には日本型食生活が提唱された。かつて沖縄は、世界に名だたる長寿地域であり、その食事要因なども調査されてきたが、全国に先駆けた食事の西欧化により長寿が危機に瀕している[4]。このような傾向を日本の他の地域も後追いするといわれている[4]。さらに微量な栄養素や腸内細菌の影響も調査される。 古くは精白が奨励されていたが、21世紀近くには問題ありとされた。また、動物性食品を古くは奨励し、後に大きな問題の源としている。過去に食物繊維は栄養素の利用効率を下げると考えられ穀物の精白が推奨されたが[5]、白米など精白による栄養損失も問題となり日本の栄養学創設者佐伯矩は七分搗き米 1871年(明治4年)に、ドイツ医学を教授したドイツ人ホフマンによって栄養についての知識が日本に伝えられた。しかし、そのときは医学のなかの一分野にすぎず、一つの学問として体系化されたものではなかった。 佐伯矩は、栄養学を学問として独立させたため「栄養学の創始者」といわれる。矩は、京都帝国大学で医化学を学んでいたころ、すでに「米と塩を以って生活できるか否かについての研究」と栄養に目が向いていた[16]。内務省伝染病研究所に入り北里柴三郎の門下として細菌学を研究した。ここでの研究によって1904年(明治37年)には、大根に含まれる消化酵素を発見したことも成果の一つとなっている[17]。1905年(明治38年)には、北里柴三郎らの推薦で特別研究員としてアメリカのイェール大学に招聘される[18]。1911年(明治44年)ごろ、またヨーロッパを遊学した[19]。 栄養学が芽生えたのは、1914年(大正3年)。佐伯によって営養(栄養)研究所が創設され、医師10名、高等師範1名に栄養に関する講義が行われた。1918年(大正7年)当時、教科書や政府の刊行物では営養と表記していたものを栄養に統一するように文部省に建言した[20]。栄えるという字には健康を増進する意味があるからである[21]。また完全食や偏食といった言葉も作り出している。1920年(大正9年)には、内務省の栄養研究所(現在の国立健康・栄養研究所)が設立され、佐伯は初代所長となる。1924年(大正13年)、佐伯は私費を投じて栄養学校を設立。翌年入学した第一期生は、1年間の学業を修め、佐伯によってつけられた「栄養士」という呼称で世に出た。1934年(昭和9年)日本医学会の分科会として、栄養学会
概要
日本における栄養学の歴史
栄養学の創設「栄養学の父」と呼ばれる佐伯矩の像
佐伯矩は海外でも精力的に講義を行い、その業績によって1937年(昭和12年)には、国際連盟主催の国際衛生会議において、参加各国が国家事業として栄養研究所を設立し、栄養士の育成を行い、分搗きの米を用いることの決議がなされた[22]。ビタミンの国際単位も国連への矩の提案である[21]。 1924年(大正13年)、矩の栄養学校(現在の佐伯栄養専門学校)ができる。1933年(昭和8年)、香川綾の家庭食養研究会ができ、1939年(昭和14年)に女子栄養学園となる。1939年(昭和14年)、陸軍の糧友会が食糧学校を設立した[23]。1947年(昭和22年)に栄養士法ができ、上記の栄養学校、食糧学校、女子栄養学園で栄養学を学んだものに与えられていた栄養士という称号が公的なものとなった[23]。1962年、管理栄養士が制度となる。 明治時代から食養会の関係者は玄米を奨めていた。当時の栄養学では、玄米に多く含まれる食物繊維は未消化で排泄されるので栄養吸収の効率が悪いと考えられていたが、真っ白に精白した米は栄養素が少なすぎるという問題があり、当時多発したビタミンB1不足による脚気の予防のためにも、その中間を提唱していた。 1918年(大正7年)、矩は新聞社を16社呼び、胚芽米をすすめ、米のとぎ洗いも問題だと伝えた[24]。しかし、精米技術が追い付かず、胚芽米の推奨はやめてどちらかというと胚芽米を嫌っているようでもあった[25]。1921年(大正10年)、玄米をすすめてきた医師の二木謙三が玄米をすすめる内容の著書を発行している[26]。1922年(大正11年)、矩は七分搗き米をすすめる[27]。
栄養士と養成施設
主食論争「日本の脚気史」も参照