柿本人麻呂
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鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が まちつつあらむ(『万葉集』巻2-223、石見國に在りて臨死(みまか)らむとせし時、自ら傷みて作れる歌)[9]

また、愛国百人一首には「大君は神にしませば天雲の雷の上に廬(いほり)せるかも」という天皇を称えた歌が採られている。

今昔秀歌百撰で柿本人麻呂は6番で、あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が獄に雲立ち渡る(出典:万葉集巻七、選者:齋藤恭一(元埼玉県高校教諭))
人麻呂の謎柿本人麻呂(菊池容斎『前賢故実』)
官位について

同時代の各種史書上に人麻呂に関する記載がなく[注釈 4]、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序では五位以上を示す大夫を付して「柿本大夫」と記され、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」[注釈 5]と書かれている。また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。

江戸時代、契沖賀茂真淵らが史料に基づき、以下の理由から人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたと唱えた。以降、現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
五位以上の身分の者の事跡については、正史に記載されるはずであるが、人麻呂の名は正史に見られない。

死去に関して律令には、三位以上は薨、四位と五位は卒、六位以下は死と表記することとなっていた。『万葉集』の人麻呂の死去に関する歌の詞書には「死」と記されている[注釈 6]

梅原猛による異説

「人麻呂は下級官吏として生涯を送り、湯抱鴨山で没した」との従来説に対して、梅原猛は『水底の歌?柿本人麻呂論』において大胆な論考を行い、人麻呂は高官であったが政争に巻き込まれ、鴨島沖で刑死させられたとの「人麻呂流人刑死説」を唱え、話題となった。また、梅原は人麻呂と、伝説的な歌人・猿丸大夫が同一人物であった可能性を指摘した。しかし、学会において受け入れられるに至ってはいない。古代律令の律に梅原が想定するような水死刑は存在していないこと、また梅原が言うように人麻呂が高官であったのなら、それが『続日本紀』などに何一つ記されていない点などに問題があるからである。なお、この梅原説を参考にして、井沢元彦が著したデビュー作が『猿丸幻視行』である(ただし作中人物によって、益田勝実による批判が紹介されており、梅原説を肯定はしていない)。

『続日本紀』元明天皇和銅元年(708年4月20日の項に柿本?(かきのもと の さる)の死亡記事がある。この人物こそが、政争に巻き込まれて皇族の怒りを買い、和気清麻呂のように変名させられた[注釈 7]人麻呂ではないかと梅原らは唱えた[12][13]。しかし当時、藤原馬養(のち宇合に改名)、高橋虫麻呂をはじめ、名に動物など語を含んだ貴人が幾人もおり、「サル」という名前が蔑称であるとは言えないという指摘もある。柿本?と人麻呂の関係については、ほぼ同時代を生きた同族という以上のことは明らかでない。益田勝実は、梅原が、人麻呂は処罰として名前を変えられ、位階も下げられたとし、死ぬまでには許されており位階ももとに戻ったため正史に記載されたとしていることから、それなら名前が?のままなのはおかしいと指摘し、梅原はついに答えることができなかった。
旧跡柿本人麻呂(歌川国芳画)
終焉の地

その終焉の地も定かではない。有力な説とされているのが、現在の島根県益田市(旧・石見国)である。地元では人麻呂の終焉の地としては既成事実としてとらえ、高津柿本神社としてその偉業を称えている。しかし人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあったとされる、鴨島である。「あった」とされるのは、現代にはその鴨島が存在していないからである。そのため、後世から鴨島伝説として伝えられた。鴨島があったとされる場所は、中世地震万寿地震)と津波があり、水没したといわれる。この伝承と人麻呂の死地との関係性はいずれも伝承の中にあり、県内諸処の説も複雑に絡み合っているため、いわゆる伝説の域を出るものではない。

その他にも、石見に帰る際、島根県安来市の港より船を出したが、近くの仏島で座礁し亡くなったという伝承がある。この島は現在の亀島と言われる小島であるという説や、河砂の堆積により消滅し日立金属安来工場の敷地内にあるとされる説があり、正確な位置は不明になっている。また他にも同県邑智郡美郷町にある湯抱鴨山の地という斎藤茂吉の説があり、益田説を支持した梅原猛の著作(前述)で反論の的になっている[14]
神社「柿本神社」も参照

平安時代後期以降、人麻呂は歌人として称えられるだけでなく、和歌の上達などに霊験がある存在として崇拝されるようになった。歌会に、人麻呂の絵姿と歌(人麻呂作と考えられた「ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島隠れ行く 舟をしぞ思ふ」)を掲げて、歌の上達を祈願する人麿影供(えいぐ)が行われるようになった。『十訓抄』などによると、藤原兼房が夢に現れた人麻呂を絵に描かせ、後に藤原顕季がこれを模写して影供を始めたという。

人麻呂を神として祀る神社や祠も各地に建てられた。高津柿本神社柿本神社 (明石市)が著名である。「ひとまる」から「火止まる」「人産まる」と連想されて、庶民に防火・安全の神とされた例もある[15]
脚注[脚注の使い方]


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