海外市場の開拓は、大きな規模ではないものの、行われてきてはいる。TOMOE BRAND の柿の種
美濃屋あられ製造本舗は、第二次世界大戦終戦後(戦後)それほど経たない時期から(※つまり、時期の詳細は不明ながら)[21]、神奈川県横浜市の輸出商社「株式会社清水商店」を通じ[21]、アメリカ合衆国ハワイ州の現地企業 TAIYO Inc.(タイヨー株式会社)への PB提供 "TOMOE BRAND(トモエ ブランド[22]) で柿の種を輸出してきた[21]。ブランド名は、ロゴタイプに紋所「三つ巴(みつどもえ)」が用いられているとおり、「巴(ともえ)」から来ている(■右の画像を参照)。柿の種のあられの色合いは濃く、黒に近いものが主流になっている[22]。2010年(平成22年)12月31日をもって清水商店が廃業すると、2011年(平成23年)1月1日からは製造元である美濃屋あられ製造本舗がブランドを引き受けることとなった[21]。今でもハワイのABCストアや空港では TOMOE BRAND で柿の種が販売されている[21]。
2003年(平成15年)には、亀田製菓が中国山東省青島市に子公司(子会社)を設立し、米菓の日本向け輸出を始めた[23]。2005年(平成17年)には台湾系食品大手の康師傅と合弁会社を設立し[23]、中国本土の巨大市場に切り込もうとしたが、これも台湾系食品大手の旺旺集団
(英語版)に属する中国旺旺が中国本土の米菓市場で7?8割のシェアを押さえているため[23]、流通網拡大は思うように進んでいない[23]。2009年(平成21年)1月からは中国市場の開拓に乗り出し[4]、日系のスーパーマーケットやコンビニを販路としたテスト販売を始めている[4][23]。中国オリジナルの麻辣味も開発している。2008年(平成20年)4月、対米輸出強化を図る亀田製菓はアメリカ合衆国カリフォルニア州に現地法人 "KAMEDA USA" を発足させ、柿の種(総称)を "Kakinotane(カキノタネ)" 名義で試験販売した。その後、発音のしやすさから "Kameda Crisps(日本語音写例:カメダ クリスプス) に改称したうえで本格的に販売し始めた[24]。アメリカ版の柿ピーはアメリカ人の嗜好に合わせてイリノイ州で産する大き目のピーナッツを使用しており、剥き身のピーナッツ自体も塩味で味付けされている。また、アメリカでの健康ブームに合わせ、ノンフライであることを売り文句にしている[25]。
2018年(平成30年)3月30日には、亀田製菓が、カンボジアにおいて米菓・スナック菓子の製造販売を行っているリリー・フード・インダストリー社 (LY LY Food Industry Co., LTD.) との合弁会社の設立を発表し、同年5月から同国市場への進出を図っている[26][27][28]。
2021年(令和3年)に公開されたハリウッド映画『ワイルド・スピード/ジェットブレイク』(ユニバーサル・ピクチャーズ制作)では劇中に亀田製菓の柿の種が登場し、実際に出演者が同製品を食べるシーンがあるとして話題になった[29][30]。 2014年(平成26年)、亀田製菓は「亀田の柿の種」こと亀田製菓製の柿ピーを宇宙食(宇宙日本食)にするべく開発に着手した[31][32]。「亀田の柿の種」発売50周年を迎えた2016年(平成28年)には、節目の挑戦として係る開発は正式プロジェクトとなり[31][32]、明くる2017年(平成29年)8月7日、「亀田の柿の種」はJAXAの宇宙食(宇宙日本食)に認定された[31][32]。認証品名は、日本語で「米菓(柿の種ピーナッツ入り)」、英語で "Rice Crackers(Kakinotane with peanuts) という[31][32]。
宇宙食
年表
大正時代
1919年(大正8年) - 今井與三郎(現・浪花屋製菓株式会社の創業者)が、新潟県古志郡四郎丸村(現・長岡市四郎丸)にて煎餅の個人商店を営み始める。
時期不特定 - うるち米で煎餅を作っていた今井與三郎が、もち米を使った小判型あられを作るようになる。
時期不特定 - 製造工程の全てを手作業でこなしていた今井與三郎が、一部に金型を使うようになる。
1923年(大正12年) - 今井與三郎の妻が金型をうっかり踏み潰してしまい、“柿の種子に似た形のあられ”考案のきっかけを作る。
1925年(大正14年) - 今井與三郎が「柿の種」を発売する。
昭和時代
第二次世界大戦終結後それほど経たない時期 - 美濃屋あられ製造本舗が、輸出商社「株式会社清水商店」を通じ、アメリカ合衆国ハワイ州の現地企業 TAIYO Inc. への PB提供 "TOMOE BRAND(トモエ ブランド)" で柿の種を輸出し始める。
1955年(昭和30年) - 柿ピーの登場/一説に、帝国ホテルの酒場で既に供されていたとされる。
1961年(昭和36年) - 浪花屋製菓が工場を増築して増産体制に入る。「柿の種進物缶」を発売。
1966年(昭和41年) - 柿ピーの市販流通の始まり/亀田製菓が柿ピーの市販流通品「ピーナッツ入り柿の種」を発売[4]。
1977年(昭和52年) - 亀田製菓が市販流通品「フレッシュパック柿の種」シリーズを発売[4]。個包装を初めて導入したことで、それまでヒットの兆しが無かった柿ピーが圧倒的売り上げを誇るきっかけとなり[4]、やがて亀田製菓は柿の種市場の売り上げの5割以上を占めるようになる[4]。
平成時代