1937年、東京府東京市下谷区浅草田原町(現:東京都台東区浅草)で経師屋の息子として生まれる[14]。父は表具師だった[12]。4 - 5歳の頃から近所の映画館へ遊びに行き、清水金一や榎本健一を観て育つ[15]。
小学3年生の時に東京都港区愛宕の愛宕山に転居[12]。転居してから間もない頃に兄が行方不明になった[12]。
小さい頃から吃音症により、た行がうまく言えず、そこで詰まっていた[16][17][2]。それを治そうと、小学校時代の担任の教師が、国語の授業に力を入れてくれて、何回も指名して皆の前で読ませたりして、訓練してくれたという[2][18]。その一つとして、演劇を教えてくれたという[2]。中学、高校進学後も相変わらず治らなかったが、演劇には興味を持っていたため、続けてはいたという[2]。
当初目標としていたのは歌手だった[18]。当時は教師も色々調べてくれて、ある日「吃音症は歌うと、どもらないと云われているから試してみろ」と言われ、試してみたところどもらず、当初は歌手になろうと決意した[15][18][19]。歌の世界を目指してラジオののど自慢番組に出場したが、結果は鐘2つで落選[18][19][20]。その時に「あ、俺には才能がないな」と歌を断念した[18][20]。その後教師から卒業前に、「歌がダメなら、歌舞伎をやれ。歌舞伎の台詞は“歌うが如く”だ」とアドバイスを受け、歌舞伎の世界を目指したという[18][19][20]。
西桜小学校卒業[4]。当時は天童と呼ばれていたが、中学校に入ると「ビリから三番目」になったとのこと[4]。
麻布中学校・高等学校卒業[4][14][21]。中学時代で最初に出演していた舞台は『同志の人々』[20]。当時はこれに出演してもらうために、十七代目 中村勘三郎に中学生が一升瓶持って「よろしくお願いいたします」とご挨拶に行っていたという[20]。勘三郎からは「面白いヤツだ」と思われたようで、その後も良くしてくれた[20]。