柴田秀勝
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小さい頃から吃音症により、た行がうまく言えず、そこで詰まっていた[16][17][2]。それを治そうと、小学校時代の担任の教師が、国語の授業に力を入れてくれて、何回も指名して皆の前で読ませたりして、訓練してくれたという[2][18]。その一つとして、演劇を教えてくれたという[2]。中学、高校進学後も相変わらず治らなかったが、演劇には興味を持っていたため、続けてはいたという[2]

当初目標としていたのは歌手だった[18]。当時は教師も色々調べてくれて、ある日「吃音症は歌うと、どもらないと云われているから試してみろ」と言われ、試してみたところどもらず、当初は歌手になろうと決意した[15][18][19]。歌の世界を目指してラジオののど自慢番組に出場したが、結果は鐘2つで落選[18][19][20]。その時に「あ、俺には才能がないな」と歌を断念した[18][20]。その後教師から卒業前に、「歌がダメなら、歌舞伎をやれ。歌舞伎の台詞は“歌うが如く”だ」とアドバイスを受け、歌舞伎の世界を目指したという[18][19][20]

西桜小学校卒業[4]。当時は天童と呼ばれていたが、中学校に入ると「ビリから三番目」になったとのこと[4]

麻布中学校・高等学校卒業[4][14][21]。中学時代で最初に出演していた舞台は『同志の人々』[20]。当時はこれに出演してもらうために、十七代目 中村勘三郎に中学生が一升瓶持って「よろしくお願いいたします」とご挨拶に行っていたという[20]。勘三郎からは「面白いヤツだ」と思われたようで、その後も良くしてくれた[20]。中学時代はバス通学をしていたが、当時は車掌に行き先を伝えて切符を買うという規則であり、吃音症から家のある虎ノ門(とらのもん)が言えず、次駅の田町駅(たまち)も言えなかったため、その次駅である新橋駅まで乗って、毎日二駅歩いて戻ってきていた[16]。そのため、た行が言えるように克服するため、高校の頃に演劇部に入部した[16]。男子校だったため、女役には困っており、女子校の演劇部を駆けずり回り、女生徒を借りてきたという[12]。「歌舞伎独特の“七五調”の台詞を、ゆっくりと声高らかに発声していけば、言葉の問題も解消するのではないか」と考えたことからそれまでのクラブの伝統を破り、歌舞伎を上演することを思いつき、初めて女形の経験もしていた[12]。中学、高校時代と歌舞伎を続けて、「さて、大学をどこにしようかと考えていたところ、当時は歌舞伎を勉強できる大学は学習院大学早稲田大学日本大学芸術学部と3つしかなかった[18][19][20]。そこで、先生に「歌えば言葉はつかえない。歌舞伎の台詞は歌うようなリズムがあるから、演劇が好きなら歌舞伎を勉強できる日本大学芸術学部に行ってみたら」と言われ、日本大学芸術学部演劇科に進学する[16][14][17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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