キノトールが在籍していたテアトル・エコーなら「何とか入れるかもしれない」と思い面接を受けに行ったが、納谷悟朗に落とされた[23]。後年、東京ディズニーランドのシンデレラ城がオープンした時、その流れで納谷が「突風」に来たことがあり、「納谷さん、あのとき僕を落としたの、覚えてます?」と訊いたところ、「いや、ぜんぜん覚えてない」と返され参ってしまったという[23]。「オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー」で納谷と久々に共演したが、あれがご一緒した最後の作品となってしまった[23]。その頃まで柴田のことを「ひでかつ」と呼び捨てにしてくれたのは、納谷くらいしかいなかったという[23]。そのアフレコの際、納谷が「おい、ひでかつ。今日は先にやって帰ってくれ。後は俺ひとりでのんびりやりたいから」と、その時は「まさか先輩を差し置いて先に帰れるわけないじゃないですか」と言った[23]。納谷は冗談めいた口調で「俺はこれがもう最後の仕事になるかもしれないから、頼むから好きにさせてくれよ」とそうまで言われると先に帰るしかなく、結局、それが納谷と言葉を交わした最後になってしまった[23]。その後しばらくて、大泉に新設された録音スタジオに訪れたことがあり「ああ、僕たちみたいな吹き替え役者のために、今ではこんな立派なスタジオが建てられる時代になったのか」と、しみじみ想ったことがあった[23]。それもこれも、すべては納谷たちを始めとする先輩たちの苦心の賜物だった[23]。その時は「たかが吹き替え屋ふぜいが」と蔑まれながらも、「実直に声の芝居に磨きを掛けてきた偉大な先人たちの成果が、今こうして目に見える形で結実したんだなあ」、「こんな立派なスタジオで納谷さんたちご一緒できたなら」とそう考えると、思わずこみ上げてくるものがあったという[23]。
『熱血カクタス』で共演した内海賢二に対して、自身のバーの2階を下宿として提供し、そのうえアルバイトのバーテンとして雇い、彼の生活を援助した[35]。内海は生前声優生活初期に面倒を看てくれた柴田と八奈見乗児への感謝を忘れなかったと言う[35]。
キートン山田を声優に誘ったのは柴田である。山田がアルバイトをしながら役者生活をしていた時期、アルバイト先のスナックの店主が柴田と知り合いだったため、柴田が店によく訪ねて来ていて、山田と面識ができた。ある日、柴田が「声専門のプロダクションができるから、履歴書を書いて来い」と山田に言い、創立したばかりの青二プロダクションに預かりで所属させた[36]。
後輩である塩沢兼人とは親交があり、柴田は「俺が死んだら弔辞はお前が読んでくれ」と言っていた[37]。しかし、塩沢の急逝(2000年5月)によって実際には塩沢の弔辞を柴田が読むことになった[37]。その弔辞の中で、柴田は「バカヤロー」と怒りを交えながら深く嘆いている[37][38]。
小村哲生とは仲が良く、「声の仕事をやれ」と誘ったことで小村は声の仕事を始めたという[39]。小村によると柴田の繋がりで、青二塾の卒業生が巡回公演に参加してくれるという[40]。
柴田が『水戸黄門』(25?27部)のナレーションをしていた頃、大塚周夫が「水戸黄門見てるぞ! いいよ、なかなかいい! でも、ターゲットが広すぎるよ。