柳窪
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2013年(平成25年)に新青梅街道から黒目川沿いに柳窪を縦断して下流の柳橋まで約1kmにわたる遊歩道が開通した。「さいかちの道」と名付けられたこの道は、東京都指定の「雑木林のみち」の延長でもある[10][21]。柳橋から下流には久留米西団地内の「しんやま親水広場」を抜ける遊歩道が整備されており、更にその先の下里氷川神社まで延伸する遊歩道は2017年(平成29年)4月に開通した[22]。これにより新青梅街道から下里氷川神社まで黒目川に沿う約2.1kmの親水化整備区間の遊歩道が完成した。
歴史
近世から近代

江戸時代には武蔵野の荒地が開墾されて田畑となった。東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発され、寛文10年(1670年)に幕府領(天領)となった。安政5年(1858年)に一時期熊本藩領となったのを除き、幕末まで天領であった。村が成立して間もない元禄11年(1698年)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709年)、隣接する田無村飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。享保18年(1733年)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている[23][24]

江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。現在では柳窪一丁目 - 五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。柳窪村の江戸時代、文政10年(1827年)の家数は38軒、人口は222人、1872年明治5年)の家数は42軒、人口は253人だった。1872年(明治5年)から神奈川県に編入され、1889年(明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。1893年(明治26年)に東京府に編入し、1943年(昭和18年)に東京都となった[19]
武州世直し一揆と柳窪武州世直し一揆の床柱の傷_顧想園(柳窪4丁目)

慶応2年6月13日1866年7月24日)、秩父郡上名栗村に端を発し、武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州世直し一揆には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される同月19日(西暦7月30日)までの7日間で関東西部各地に広がった。打ちこわしの被害にあった村は202村。幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた関東最大の一揆が幕藩体制に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった[25]

この一揆の鉾先は柳窪にも向けられた。6月14日 - 15日(西暦7月25日 - 26日)に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、16日(西暦7月27日)早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。その数は数百人との説もあるが定かではない。江戸の江川代官所内にあった砲術訓練所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵が一揆勢の鎮圧にあたった。田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。農兵は七次郎宅打ちこわし中の一揆勢に向けて容赦なく発砲した。その結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなった。即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された[26]。事件発生の翌慶応3年4月(1867年5月)、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じ、自然災害や農民の困窮に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた記録が残されている[27]

村野七次郎宅であった村野家住宅(柳窪四丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている[28]

一揆勢を鎮圧刷るための江川農兵の出動は、柳窪村だけでなく、昭島市(築地川原、日野・八王子農兵)、あきる野市(入野村、五日市・桧原農兵)にも及んでいる。江川役所手代らの「見かけ次第うち殺すべし」との指示のもと、これらの地域でも激しい戦闘が繰り広げられた。築地川原での死者は18人、召捕は41人。入野村では死者10人、召捕26人であったという[29]。武州世直し一揆展開図[30]によれば、他所では藩兵・関東取締出役・自警団などが鎮圧にあたっていたが、多摩郡の江川支配下では、村の治安維持装置として武装農兵組織を本格的に稼働させた。柳窪村における一揆鎮圧は、このような武装農民組織が実戦投入されたケースとして注目される。
現代柳窪付近の空中写真。画像中央付近の緑地帯が「柳窪緑地保全地域」。2008年撮影。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。

この地域も1950年代終り以降、東京のベッドタウンとして開発が進む。1959年(昭和34年)に旧保谷町・旧田無町・旧久留米町にまたがるひばりが丘団地が完成、1968年(昭和43年)には旧久留米町の雑木林の地に造成された滝山団地の入居が開始され、急激な人口流入が起こる。1968年(昭和43年)の新都市計画法の施行により市街化区域と市街化調整区域の区分が制定され、1970年(昭和45年)に東久留米市は市内全域が市街化区域に指定された[31]。これにより柳窪地区の多くの畑地・果樹園の宅地への転用が加速され、平地林だけではなく屋敷林も消えていった。集落内にはラブホテルも建設された。

危機感を抱いた地元地権者の有志たちは、宅地開発の荒波のなかで緑と景観を守るべく、柳窪地区の12.2ヘクタールの土地を都市計画法上の「市街化調整区域」へ編入すること(逆線引き)を東京都に申請した[32]。ルールに基づいて行政が決定した都市計画法の線引きの変更はむずかしく、また「市街化調整区域」では開発が強く制限されて土地取引価格の下落が一般的である。それでも有志たちはこの地域の自然と景観を保全する道を選んだ[33]。申請は1990年(平成2年)に認められ、これにより、隣接する「柳窪緑地保全地域」と併せて、上空から見ると市街化地域の中に浮かぶ「緑の島」と呼べるような景観が残されることになった。

1969年(昭和44年)11月1日に住居表示を導入した[8]。これと前後して柳窪と柳窪新田を柳窪一丁目から柳窪五丁目とし、一部は下里、南町、弥生へ移行した[8]。柳窪四丁目と五丁目に「市街化調整区域」が含まれる。
柳久保小麦柳久保小麦(右):従来種の小麦(左)より穂丈が長く太い

かねてより、柳窪は「柳久保小麦」発祥の地としてその名が知られている。柳久保小麦は、嘉永3年(1850年)あるいは嘉永4年(1851年)、柳窪の奥住又右衛門が旅先から持ち帰った一穂の麦から生まれたとする説[34][35]が流布されているが、一方、江戸から肥料にまぎれて運ばれてきた日本国外の長穂の種を又右衛門が発見して増殖したとする説[36]もあり、その経緯は必ずしも明確になっていない。優良な小麦だったので評判になり、「又右衛門種」あるいは「柳久保小麦」と呼ばれ、東京各地や神奈川県など近隣県の農家でも栽培された[37]。この麦からは良質の粉ができ、「人が集まればうどん」の地域の習わしの中で、柳久保小麦の人気は高かった。柳久保小麦は、普通の小麦より穂丈が長く太いため、家屋の屋根材としても広く利用された。当時の民家は茅葺き屋根が多く、屋根材として不足する茅を補うために柳久保小麦の麦藁が使われた[34]

しかし、栽培にあたっては丈高のため倒れやすく、収穫量も他品種の約3分の1と少ないことから、1942年(昭和17年)に戦時中の食糧増産政策により作付けが中止された。その後、1985年(昭和60年)に又右衛門の子孫がつくば市農林水産省農業生物資源研究所に保存されていた種を譲り受けて播種し[35]、1988年(昭和63年)に46年ぶりに栽培を復活させた[34]

2010年代は、東久留米市内の10数軒の農家の協力により耕作され、うどん・ラーメン・かりんとう・饅頭・パン・クッキーなど関連商品が市内で販売されている[36][38]
世帯数と人口

2017年(平成29年)12月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口
柳窪一丁目272世帯707人
柳窪二丁目1,279世帯2,722人
柳窪三丁目159世帯317人
柳窪四丁目414世帯1,040人
柳窪五丁目187世帯541人
計2,311世帯5,327人

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