柳生三厳
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脚注[脚注の使い方]
注釈^ ただし、後述の事情により柳生藩第2代藩主として数える場合もある。
^ 三厳の誕生時は3千石の旗本。
^ この勘気について三厳は自著で「さることありて、若(家光)の御前をしりぞきて」[1][2]や「故ありて東公(家光)を退き」[3]とだけ述べ、『寛政重修諸家譜』や『玉栄拾遺』でも「ゆえありて」[4][1]とあいまいに表現しており、理由は明確にされていない。ただし父である宗矩に何の咎もおよんでおらず、その後も順調に加増を重ねていることから軽罪であったと見られる[5]
^ 寛永4年から5年頃に家光から宗矩に宛てたと見られる3月20日付の短簡の中で「七郎(三厳)は余に対し、いつまでも無沙汰していてはならぬ」と御前を離れた三厳の様子を気にかけている[6]
^ 『玉栄拾遺』では徳川秀忠逝去による恩赦に関連して致仕して5、6年後の寛永8年から9年頃に赦免されていたとする当時の古老の証言も紹介している[5]
^ 本文は無題であるが、書き出しの一文から『昔飛衛という者あり』または『飛衛』などと呼ばれる。
^ 宗矩自身が記した『昔飛衛というものあり』の奥書による[3]。その他、三厳の著書では、この時の宗矩の言葉を回想して「これ残不やき捨たらんにしくはあらしと也 」[2]や、「一炬に灰となして後来れ、汝をゆるさん」[3]と記している。
^ 『月之抄』序文に「父かいしんてんしんの、秘術、事理一体、本分之茲味ことことくつきたり」[2]とあり。
^ 印可を与えるに当たって、宗矩は『昔飛衛という者あり』に添えた奥書に「今筆を加えて以て印可して云わく、是車を牽き車を推す、只車の之行くを欲するため也」[3]と注記している。また、これらの印可を認められるまでの経緯について、三厳は『昔飛衛というものあり』と『月之抄』に書き残し、宗矩も『昔飛衛というものあり』の奥書で簡単に触れている。
^ 友矩が致仕した正確な年月は明らかではないが、三厳が再出仕した翌年に死去していることから、三厳の再出仕は友矩の致仕と関係していると見る向きもある[7]
^ 宗矩の遺領1万2500石のうち、4千石は三弟の宗冬が継いで別に家を立て、200石は芳徳寺建立の寺領とされ、末弟列堂が初代住侍を務めた(次弟の友矩は父に先立って死去)[4][9]
^徳川実紀』および『玉栄拾遺』[1]より。ただし『寛政重修諸家譜』では柳生で死去したとしている[4]
^ 酒好きであったことから脳卒中だったとする意見や、著書『武蔵野』内に現代でいう狭心症のような症状があることを記していることから、その発作によるものとする意見がある。
^ 『徳川実紀』では「四月三日、柳生十兵衛三巖死して男子なし遺領八千石余を弟内膳宗冬に継がしめられ、三巌の女子を養育すべしと命ぜられ、宗冬の四千石をば収公せらる。これ父但馬守宗矩年頃の勤労を思召し、かく命ぜらるれば、いよいよ怠らず勤仕すべしと仰下さる」とあり[12]
^ 『好古類纂』(好古社 明治38年)所収の画が肖像画として用いられることが多い。ただし本当に三厳を描いたものであるかどうかは不明[13]
^ 山口県文書館蔵『譜録』に所収、就幸の子孫内藤作兵衛幸直が提出した家伝書による[17]
^ この杖術が残る尾張柳生の団体では、鉄棒を割った竹で包み、これに漆を塗って固めたものとする製法を伝えている。この杖は現在芳徳寺で公開されている。
^ 寛政7年に著された『仕込み杖遣様目録』では「右杖は柳生十兵衛様(三厳)、御工夫にて、殊の外、御秘密蔵の事ゆえ、外にしるものなし」として、選ばれた者にしか伝授を許されない旨が記されている[18]
^ 助永自身は自らの流派を「古陰流」と名乗り、助永が小夫とも称したことから「小夫流」とも呼ばれた。同流派について『南紀徳川史』では、「(新陰流とは)元来同流にして異あるにあらず」として、内容的には新陰流と変わりないとしている。後に助永の子孫が不行跡により改易された事により、門弟の西脇勘左衛門が流派を相伝し、以降は「西脇流」と称するようになった[15]
^ 出仕後の寛永15年11月15日付の沢庵からの手紙で「久々御随意に在所に御座候間、又立帰御奉仕、小者御苦労におぼしめさるべく召候。御酒さへ不参候はば、万事あいととのうべく候。其段随分御心持専用候」とある。
^ 正保元年3月26日付の沢庵の手紙にて『柳生十兵衛にて、寒き朝、芋酒を先皆々へ興へくれ候て、我々には時儀も無御座候間、「芋酒は芋掘僧にくれもせでつるをたたさぬ人はなんしよよ」と申。又同「いも酒をのめばいもせの中よくてぬかごをうむと云はまことか」と二首をよみ申候へば、大笑い仕り候て、まことかとは御出家の方々は、存無事とよく聞き申候とて、わめき被申候』という一文あり。
^ 寛永12年付の荒木又右衛門の新陰流起請文が藤堂藩士・戸波又兵衛宛であることを考えると、まず創作であろうと思われる。
^ 早世した友矩の旧領でもある。
^ 『玉栄拾遺』には「家流印可論文を書く」[1]とある。
^ なお、史実に於いて隻眼説が確認できないこともあり、作品によって開いている眼が左右どちらになるか異なることがある。
^ この集団の初出は「子連れ狼」であり、原作者小池一夫自身が、自らによる創作であると発言している。

出典^ a b c d e f g h 史料 柳生新陰流〈上巻〉収録『玉栄拾遺(三)』。該当箇所はp.80-81
^ a b c d 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『月之抄』
^ a b c d e 史料 柳生新陰流〈下巻〉収録『昔飛衛というもの有り』
^ a b c 寛政重修諸家譜 p.297
^ a b 今村嘉雄1994 p.212
^ 渡辺誠2012 pp149-150.
^ 渡辺誠2012
^ 徳川実紀 寛永16年2月
^ 徳川実紀 pp.442-443(正保3年5月18日)

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