柳生三厳
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最期芳徳寺境内にある柳生一族の墓所。中央が三厳の墓

慶安3年(1650年)、鷹狩のため出かけた先の弓淵(現・京都府相楽郡南山城村[11]。早世した弟友矩の旧領)で急死した[注釈 12]。奈良奉行・中坊長兵衛が検死を行い、村人たちも尋問を受けたが、死因は明らかにならないまま[注釈 13]、柳生の中宮寺に埋葬された。享年44[1]。墓所は東京都練馬区桜台広徳寺および奈良県奈良市柳生町の芳徳寺にある。

三厳には嗣子がなかったものの、亡き父・宗矩の勤功を理由に取り潰しは避けられ、弟の宗冬が自身の領地を返上した上で三厳の跡を継ぐことを許された[注釈 14]。三厳の遺児である2人の娘(長女・松、次女・竹)は、家光の命により宗冬が養育することとなり、後にそれぞれ旗本に嫁いでいる。その母である三厳の妻(大和の豪族・秋篠和泉守の娘)は貞享4年(1687年)まで生き、死後は麻布の天真寺に葬られたという[1]

三厳の跡を継いだ宗冬はその後順調に加増を重ね、寛文9年(1669年)には総石高1万石となって再度大名としての地位を回復させた。そのため、三厳自身は大名に列したことはないものの、便宜上柳生藩第2代藩主とされている。
系譜

子女は2女

父:
柳生宗矩(1571 - 1646)

母:おりん - 松下之綱の娘

正室:秋篠和泉守の娘(? - 1687)

長女:松 - 跡部良隆正室

次女:秩B- 渡辺保正室


容姿の特徴

若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした「隻眼の剣豪」のイメージが広く知られている。これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たった(『正傳新陰流』)、あるいは宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たったため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物[注釈 15]は両目が描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述はない。
謹慎期間中の動向について

家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの12年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。三厳の自著での記述と相反しているとはいえ、宝暦3年(1753年)に成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の100年後には既に広く知られていたものと思われる。後にこの伝承が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている。
三厳の著作における記述

『昔飛衛という者あり』(再出仕する前年の寛永14年の作)
「愚夫故ありて東公を退て、素生の国に引籠ぬれは、君の左右をはなれたてまつりて、世を心のまゝに逍遥すへきは、礼儀もかけ天道もいかゝと存すれは、めくるとし十二年は古郷を出す。何の道にか心をいさゝかもなくさめそなれは、家とするみちなれは、明くれ兵法の事を案し、同名の飛衛被官の者とも、是等にうち太刀させ所作をして見るに、身不自由にしておもふまゝならぬ事のみなり
[3]。」

【現代語訳=とある事情で家光公の元を退いて、故郷(柳生庄)に引き籠った。主君の側を離れておいて、世を自由に出歩くのは、礼儀に欠け、天道にも背くと思ったので、12年間は故郷を出なかった。他にするべき事もなかったので、一日中家業の兵法の事を考えて過ごし、同名の飛衛被官の者を相手に組み太刀を試みてみたものの、身は不自由にして思うようにならない事ばかりであった。】

『月之抄』(再出仕後の寛永19年の作)
「先祖の跡をたつね、兵法の道を学といへとも、習之心持やすからす、殊更此比は自得一味ヲあけて、名を付、習とせしかたはら多かりけれは、根本之習をもぬしぬしが得たる方に聞請テ、門弟たりといへとも、二人の覚は二理と成て理さたまらす。さるにより、秀綱公より宗厳公、今宗矩公の目録ヲ取あつめ、ながれをうる其人々にとへは、かれは知り、かれは知不、かれ知たるハ、則これに寄シ、かれ知不ハ又知たる方ニテ是をたつねて書シ、聞つくし見つくし、大形習の心持ならん事ヲよせて書附ハ、詞にハいひものへやせむ、身に得事やすからす。[2]

【現代語訳=先祖の跡をたずね、兵法の道を学んでみたものの満足できず、宗厳公の門弟達を訪ねてみたが、各人が独自に解釈したものを教えと称しており、定まった理を得ることが出来なかった。そこで、上泉秀綱公から宗厳公に与えた目録、宗厳公から宗矩公に与えた目録をとりまとめ、新陰流を学んだ人々を訪ねて、各人が知っていることを、聞きもし、見もし、およその要領を書きつけ、文章にしてみたもののそれらを容易に体得することはできなかった】
柳生十兵衛廻国説

『玉栄拾遺』の記述(宝暦3年編)
「寛永年中父君の領地武蔵国八幡山の辺、山賊あって旅客の萩をなす。公(三厳)彼土に到、微服独歩し賊徒を懲らしめ玉ふ。亦山城国梅谷の賊を逐玉ふも同時の談也。其他諸方里巷の説ありといへども、未だその証を見ず」
[1]

【現代語訳=寛永年中に父君(宗矩)の領地である武蔵国八幡山において山賊が出没し、旅人に恐れられていた。三厳公は単身密かにこの地に来て、山賊達を懲らしめた。また山城国梅谷の賊を追い払ったのもこの時期の話である。この他に諸国を巡っていたとする話もあるが、これまで証拠を見たことはない】
その他の逸話


京都粟田口にて数十人の盗賊を相手にし、12人を切り捨て、追い散らした(『撃剣叢談』)

奥州から始めて各地の道場を片端から訪れては仕合を申し込みつつ、諸国を巡った(『柳荒美談』)

家光の勘気を蒙って致仕したというのは、実は公儀隠密として働くための偽装であり、宗矩の指示を受けて様々に活動した(柳生村・村史『柳生の里』)[14]。またこの説の延長として、薩摩藩に潜入した際、偽装の為に嫁を取って2年間暮し、遂には子まで設けたという話まである(出典不明)

剣術上の評価・影響

三巌の流れをくむ西脇流の伝書『新陰流由緒』には、新陰流はもともと先を取って勝つことを第一にしていたが、三厳より「敵の動きを待って、その弱身へ先を取り勝つことを修練し、古流と違いのびのびと和やかに敵の攻撃を受けて勝つ心持」になったとある
[15]。下川潮は『剣道の発達』で、この三巌の興した変化によって新陰流は受け身主体となり、和らかに、華やかになり、袋撓の上の形試合では進歩したが、真剣勝負の上から見ると退歩したと評している[16]。一方でこの変化については重心を落とした構えを中心とした戦場(甲冑)剣法から、のびのびと「後の先の勝ち」を教えた平時の素肌剣法への転換であるとする意見もある[17]

長州藩には三巌の祖父・宗厳の高弟である柳生松右衛門が伝えた新陰流が広まっていた。その松右衛門の高弟である内藤元幸の子・就幸は父から伝授された新陰流を家中に指南していたところ、江戸で三巌が当流(現代風)に改めた新陰流を教えているという噂を聞いて江戸に出て弟子入りし、寛文7年(1667年) 命によって改めて毛利家に仕官した[注釈 16]。以後、内藤家では松右衛門以来の「古流」の新陰流に対し、三巌により近代化された新陰流を「新陰柳生当流」と呼んで代々これを伝え、後に藩校・明倫館にも採用されて桂小五郎高杉晋作等も学んだ[17]。 

新陰流の刀法を応用した杖術と、それに用いるための特殊な杖の製法[注釈 17]を考案した。この杖術は新陰流(江戸柳生)でも、代々ごく限られた者のみに伝えられる秘伝として扱われ[注釈 18]、その事もあって明治維新後に一度失伝したとも言われるが、大正4年頃に、尾張柳生十一代当主・柳生厳長とその父・厳周によって伝書を元に復伝された[19]。現代でも、尾張柳生を伝えるいくつかの団体では復伝されたその技を伝えている。

三厳の流れを組む流派のうち、三厳の門人・狭川新左衛門助永に始まる「西脇流」[注釈 19]は紀州藩で栄え、後に八代将軍徳川吉宗の次男・宗武やその子松平定信が修めた他、十五代将軍徳川慶喜一橋藩主時代に学んでいる[20]

逸話
史実上の逸話

酒好きの上に酔いが回ると言動が荒くなったといい、
沢庵宗彭にも再出仕の際に忠告されている[注釈 20]。しかし、その後も酒好きはあまり収まらず、朝から東海寺に酒を持って現れ、僧たちに振る舞いつつ、からかうなどの言動があった[注釈 21](『沢庵和尚書簡集』)。またこれが致仕の原因ではないかともいわれている。

沢庵を慕い、最初の著書である『昔飛衛という者あり』を父・宗矩に酷評された時には、沢庵を頼って相談し、その取り成しもあって印可を認められている。(『昔飛衛という者あり』)

父宗矩の高弟の木村友重(助九郎)と交流があり、共に伊香保温泉に出かけて兵法について問答を交わしている他、友重の門弟にも教示を与えている様子が友重によって記録されている(『木村助九郎兵法聞書』)[21]

真偽が定かではない逸話

柳生庄にて道場を開き、全国で1万3500人にも及ぶ門弟を育てたという(柳生村・村史『柳生の里』)
[14]


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