柳沢吉保
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同年6月25日には、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きている[2]

貞享元年(1684年)8月21日には邸を江戸・愛宕下から西の丸邸へ移転する[2]。貞享2年(1685年)12月10日には従五位下出羽に叙任している[2]。貞享3年(1686年)1月11日には1000石を加増され、2030石となる[2]

吉保の生母・了本院の侍女としてつき従っていた飯塚染子は貞享2年(1686年)頃に吉保の側室となり、貞享4年(1687年)9月3日には吉保の嫡男・吉里を生んでいる[2]。同年9月18日には父の安忠が死去する[2]

元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する[注釈 2]。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。廃城となっていた上総国佐貫城に封じられる。翌元禄2年には一橋内から神田橋内に居を移し、霊岸島にも中屋敷を拝領する。

元禄3年(1690年)3月26日に2万石を加増され、同年12月25日に従四位下に昇叙する。出羽守如元。元禄4年(1691年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている[1]。一方で吉保自身が江戸城に連夜詰め、下城して屋敷で休むようになっても、雷雨の夜には雷嫌いの綱吉を案じて登城するなど忠勤を励んだ(ただし綱吉が発した『生類憐みの令』は綱吉没後ただちに廃止している)[1]六義園。加賀藩旧下屋敷を、1695年(元禄8)に将軍綱吉から拝領して下屋?とした。

元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩埼玉県川越市)の藩主となる。同年12月9日には老中格侍従を兼帯する[4]。同11年(1698年)7月21日、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する[5]。出羽守如元。元禄7年(1694年)1月7日に1万石を加増され、川越城を拝領する。同年3月11日に常盤橋内の隣地に屋敷を拝領する。翌元禄8年4月21日に駒込の前田綱紀加賀藩主)旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる。

元禄10年(1697年)7月1日には、綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の惣奉行を命じられる[6][7]。寛永寺根本中堂は元禄11年(1698年)8月2日に落成し、吉保は8月9日に日光輪王寺宮の公弁法親王を屋敷へ招き、7月21日には根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、席次も老中の上となった[7]。8月11日には勅使を迎えて根本中堂の上棟式を行っている[6][7]

元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する[8]。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている[8]

元禄14年(1701年)11月26日に吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した[9]。翌元禄15年7月12日、吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する。翌元禄16年8月26日、幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記している。
甲斐国拝領から綱吉の死去甲府城跡大和郡山市の永慶寺恵林寺

宝永元年(1704年)12月21日、綱吉の後継に甲府徳川家綱豊が決まると、綱豊の後任として甲斐国甲府城駿河国内に所領を与えられ、15万1200石の大名となる[10]。翌宝永2年(1705年)1月15日には国替に際した家中禁令を改定している[11]


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